世の中は、金だ。何をするにも金が必要だ。何を買うにも金が必要だ。ちょっと前にどこかのIT会社の社長が「金で買えないものはない」と言ったが、まさにそういう時代だ。モノは当たり前だが、地位も名声も目に見えないモノまで金で買える。愛も。出会い系サイトで知り合った男性を殺害する女性。出会い系サイトで知り合った未成年と関係を持つ学校教師。金があれば、それは手に入る。それは愛とは言わない、なんていう人もいるかもしれないが、彼ら彼女らは、愛を売っている。自分の愛を金に換算している。金があればいい。金があれば何不自由のない生活ができる。

 しかし、金を稼ぐのは簡単なことではない。資本主義経済は金を稼ぐことで成り立つ。その中で生活する人間は何があっても金を稼がなければならない。ここで言う金を稼ぐとは、金を得るという意味も含んでいる。無職の人間はこの世の中で生活を営むことは難しい。実力社会といわれるが、自分の働きに見合った給料をもらっている人はどれだけいるのだろうか。

 無職になって二ヶ月目に入った。当然収入は無い。貯金も無い。道を歩いている。お金など落ちていない。道を歩けば腹が減る。腹が減ったら何かを食べなければならない。しかし、金が無いのでは何も食べられない。だから、金が必要だ。

そんなとき、こんなことを考える。RPGの主人公は、なろうと思えば大金持ちになれる。資本主義経済の一番の成功者になれる。道を歩く。敵を倒す。収入を得る。しかも、日払い、即払い。歩けば歩いた分だけ、倒せば倒した分だけ収入は増える。しかし、ゲームの中で主人公は成功者にはなれない。そこは資本主義の世界ではない。目的は金を稼ぐことではない。敵を倒し、世の中を平和にすることが主人公の目的だ。ゲームをしていて、金を稼ぐことを一番に考える人はいない。欲しいアイテムや武器のために一時的に金を貯めることはあっても、ゲームをクリアするのに所持金は関係ない。ゲームの中では金は人間の心に影響を及ぼさない。現実世界ではこんなにお金中心の生活を送っているのに、金があるか無いかでこんなに人は変わるというのに。ゲームを始めた途端にお金はどうでもいい存在になってしまうことが不思議で面白い。ゲームをしていてお金が貯まっていくことに喜びを感じる人がいたら、それは病気だ。

あってもいいし、なくてもいい。ゲームの中でお金は“そんなもの”だ。

道を歩く。が、現実世界には敵がなかなか見つからない。見つからないというより、見えない。姿を見せない。敵はこんな道を歩いてはいない。もっと別の、もっと手の届かない道を歩いている。

お金を気にせずに、お金に囚われずに遊べる、ということは、この時代にゲームで遊ぶことの一つの魅力といえる。


 冷蔵庫に缶コーヒーがあった。いつ買ったものかは覚えていないが、ほとんどの人がそうするように缶コーヒーの賞味期限などを気にせずに手に取り、ほとんどの人がそうするように上下に振った。そのとたん、部屋中に茶色い液体が飛び散った。床に壁に僕に茶色い液体、もちろんコーヒーだ。何が起こったのか一瞬解らなかったが、起こされたプルタブを見た瞬間、昨日の夜の記憶が蘇った。

 最近、牛乳に缶コーヒーを入れてカフェオレを作るのが流行っている(世の中で、ではなく、僕の中で)。昨夜もそうしてカフェオレを作っていた。缶コーヒーを一本使い切らず、いつも少し残ってしまう。全部入れてしまえばいいのだが、その微妙な味加減を調整する無意味なこだわりがいい。使い切らなかった缶コーヒーは冷蔵庫の中に「保存」する。

 一日経てば、そんな缶コーヒーなんて、そんな微妙な味加減なんて当然忘れる。

 そして、今夜もまた、昨夜と同じようにカフェオレを作る。ほとんどの人がそうするように賞味期限など気にせずに、ほとんどの人がそうするように上下に振る。

 午前三時の出来事だった。

「缶コーヒーは上下に振る」という習慣と「冷蔵庫の中の缶コーヒーのプルタブが起きているはずがない」という思い込みが、真夜中の悲劇を生んだ。

 思い込みは怖い。

初めて「ストリートファイター2」(以下スト2)をゲームセンターでプレイしたときの思い込みぐらいに。

十歳だった僕は高校生や中学生がプレイするその何やら大きなキャラクター二体が向かい合って戦うゲームを羨望のまなざしで見ていた。ボタンが六つもあるゲームなんて今まで遊んだことがない。彼らは僕の目の前で忙しく指を動かしている。あんな動きが僕にできるはずがない。したい、と思いながらも、六つというボタンの数が僕にとっては恐怖だった。

赤信号、みんなで渡れば怖くない、という標語(?)は素晴らしい。そのとおりだ。と思いながら、僕はゲームに興味のない兄を強引にゲームセンターに誘った。

 二人並んで座り(近所のゲーセンは筐体が向かい合うように並ぶのではなく、一つの筐体に二人並んで対戦するタイプのゲーセンだった)百円玉を二枚投入していざ開始。あまりの緊張でその後の記憶がほとんどない。僕は誰を選んだのか、兄は誰を選んだのか。覚えていることといえば、ジャンプができなかったことと、2ラウンドとも僕が負けたことだけだ。

「ジャンプってどのボタン?」

 聞いてきた兄に、兄よりもゲーム好きであるというプライドがある僕は答えなければならない。

「あーえーっと」

 ごまかしながら、六つあるボタンを順番に押した。どれもパンチかキックしか出ない。と、兄が突然ジャンプした。

「!」

 僕よりも先にジャンプした。

「どうやった!?」

 プライドを捨てて僕は兄に聞いた。

「わかんない」

 その後の戦いは傍から見ればしょうもないものだったに違いない。お互い歩いて近づいてどちらかがパンチかキックを出して時間切れで終わるというバトルを二度繰り返し終わった。いったい、ジャンプボタンはどれなんだ…。

周りを見渡すと中学生、高校生は楽しいそうに遊んでいる。ジャンプしている。手から何かを出している。

その中に僕のゲームライバルであるJ君の姿があった。

「おす、どう?」

 ジャンプができないという動揺を隠すように少し喧嘩腰で近づいた。

「あ?おう」

 僕に気付いたJ君はなんだか気乗りしない顔だ。コンピューターを相手にボタンをガチャガチャしているがあまり戦いになっていない。僕と兄の戦いとあまり変わらない。もしかして、J君もジャンプがわからないんじゃないのか。

僕は思い切ってJ君に聞いた。

「なあ、ジャンプってどうするかわかる?」

 その途端、J君の顔がパッと明るくなった。

「だよな!わかんないよな!」

 J君もジャンプが分からずに悩んでいたのだ。そんなときに僕に声をかけられて、「もしこいつがジャンプを知っていたどうしよう…」と怯えていたのだ。

 僕とJ君がジャンプを知ったのは次の日のことだった。普段はあまり見ない筐体の上の操作説明に明記されてあった。

「あ~~!上ね!上か!そうか」

 

レバーを上に入れる。キャラクターがジャンプする。とても簡単なことだ。そんな簡単なことを思いつけなかった僕はとても悔しくて、なぜか裏切られた気分だった。マリオもロックマンもボタンでジャンプしていたのに。

ジャンプは上に跳ぶからレバーを上に入れる、それは、とても単純なことだけど、今までの僕たちになかった感覚だった。僕とJ君は早速百円玉を入れてジャンプしまっくた。今までにないジャンプの感覚。何度もジャンプをするうちに、その感覚が自分のものに自分の新しい感覚として体になじんでいく。ゲーセンを出る頃には僕もJ君もオトナになったような気分だった(初めてのフウゾクか!)。

ゲームにおけるジャンプはボタンが主流だ。それは実際に人がジャンプをする動作とボタンを押す動作が似ているからだ。ジャンプをするとき一度しゃがむ、そして跳びあがる。ボタンを一度押し込んで離す動作に似ている。人間の動作から考えるとボタンを押すことは直感的だ。上に跳ぶということを頭で考えるとレバーを上に入れるのもおかしくはない。

直感的操作か、思考的操作か。この使い分けでゲームの面白さは大きく変化する。

一昔前に「326」なんていう名前のイラストレーターが居たのを覚えているだろうか。当時(たぶん、高校生の頃)僕の好きだった女の子がそのイラストレーターのファンで、下敷きやら定規やら筆箱やらを持っていた。

そもそも「326」をなんと読んでいいのか分からなかった。当時の僕の感覚だと「さんびゃくにじゅうろく」だった。思い切って「それなんて読むの?さんびゃく…にじゅう」と言ったときの、その子の眉間のしわが今も忘れられない。

久しぶりにPSPのゲームを買った。

428 封鎖された渋谷で」

というタイトルのゲームなんだが、いったいなんて読めばいいんだろう。順当に考えれば、いわゆる「326方式」で「シブヤ」なんだろう。これは副題からも簡単に推測できる。しかしだ、「326」を「さんびゃくにじゅうろく」と過去に呼んでしまった人間にとっては、「326方式」という考え方が頭にない。「ふっ、過去のあやまちは二度と犯さない」とニヒルに笑いながら「よん、にー、はち」と読んだ。

僕がこのゲームを買ったのが、たまたま発売日だったらしく(実はお目当てはこのゲームではなく、「太閤立志伝V」を買う予定だった、しかし…)、特典としてDVDが付いてきた。「ネタバレの危険があるのでクリア後にご覧ください」と書いてあったので、およそ3日でクリアして(ゲームが目的なのか?DVDが目的なのか?)DVDを再生した。

DVDの後半でプロデューサーと脚本家の対談があった。その中でこんなやり取りがあった。(まったくこの通りの会話があったかどうかはうろ覚えですが、要約するとこんな感じだったと思います)



プロデューサー(以下P)「いや~それにしても、このゲームのタイトル、ちゃんと読んでくれる人少ないですよね」



脚本家(以下脚)「そうなんですよね、僕の周りの人もシブヤって読むんですよ」



P「よん、にー、はちってそもそも読んでくれないんですよ」



脚&P「あははは」



僕は目を見開いた。

 そうか!「428」ってそういう意味、つまり、シブヤを意味していたのか!僕の読み方が合っていたことのうれしさよりも、またしても「326方式」にしてやられたショックというか、恥ずかしさのほうが強く僕の心に響いた。

 クリアした後にずっと疑問だった。「428」ってなんだろう。4時28分?それとも何かの暗号?違う、渋谷を暗に(いやいや、暗とかじゃなく、みんなわかってるから)意味していたのだ。

 もっと詳しく調べてみると意外なことが分かった。「428」は確かにこのゲームの舞台である渋谷を意味することができるが、それだと単なるダジャレになってしまう。そこで、当初このストーリーが始まる日付「425日」を「428日」に変更して428という数字にしたらしいのだ。

 え?428日?この物語って428日の物語だったの?ある一日の話ではなく、しっかりと428日という日付が設定されていたなんて。慌ててPSPの電源を入れて確認してみると、しっかりと428日と書いてある。まったく知らなかった…。

 う~ん、でも、これって特に428日である必要ないんじゃなかろうか。428というダジャレだけじゃ物足りないから、428日にして428に半ば強引に「意味付け」をしただけのような。正直、拍子抜けだ。

 数字がタイトルになっているもので海外ドラマの「24」がある(ゲームではないけど)。タイトルがドラマの根幹になっていて、すごくいいタイトルだと思う。

 428も「シブヤ」+「ゲームにとってとても重要な何か」にしてほしかったな、と思う。ゲームがとてもおもしろかったら余計にそう考えてしまう。

 昔のゲームのタイトルは分かりやすいものが多かった「スーパーマリオブラザーズ」なんて、僕の好きな小説でいうと「間宮兄弟」みたいなものだ(あ、スーパーがつくから「凄間宮兄弟」か)。「いっき」なんて、もうそのまんまで、タイトル聞いただけで体が燃えてくる(なんで?)。

 最近のゲームは、(最近の若いモンは調で)横文字ばっかりで長ったらしくて意味がよく分からない。って考えると428っていいタイトルだよな~って関心したりもする(どっちだ!)。

 タイトルは、ゲームでも映画でも小説でもなんでもそうだが、遊んでみたい、見てみたい、読んでみたいと思わせるものでないといけない。情報が氾濫して、目に飛び込んでくる言葉が多すぎる現代ではなおさらだ。少々奇抜でインパクトのあるもの(もちろん、それだけじゃダメだけど)でないといけない。村上春樹の最新作もそういえば数字だ。あれは「いちきゅうはちよん」と読むらしい(「326方式」ではない)。村上春樹+数字=ヒットという公式が成り立つ(えっ!)

 

ゲームタイトルには作り手の想いも必要だけど(FFとか)、ゲームと同じように遊びゴコロも必要なのかもしれない。最近のゲームタイトルはマジメすぎる。ハードの進化でユーザーの年齢層も上がったからそれに合わせているのかも知れないけれど、もっと、ガツン!とくるファンキーなタイトルのゲームに出会いたい(内容はハードで)。

 (あ、「お姉チャンバラ」ってタイトルはいいね。遊びゴコロがあって、ゲームの内容も分かって、しかも映画化もされたし)