心を層に分けて、七識、八識、九識、十識、それ以上とする。七が最低である。それぞれの層によって、世界観(自然観)および人世観が大きく変わる。今は世界観を見てみよう。



1.七識

七識の世界観は、自他対立、時間空間あり、この世界観である。自分と他人は別、また自分と自然も別。こんな風に言える時の自分を自分としている。そう妄想している世界である。例えば西洋思想の一端として、明治の教育に大きな影響を与えたコメニウスの認識形成についての文章を見てみると、


知識は、感覚から始まり、写像作用をへて、記憶の中に残り、次いで個々の知識の帰納によって、普遍的な認識が形作られ、最後に物語が十分に認識されれば知識の的確さに応じて判断力がつく。(「大教授学」から)


これを読んで違和感がなければ七識である。或いは教育基本法を見てみよう。


…教育は、何よりもまず人格の完成を目指して行わなければならない。しかし、人格の完成は単に個人のために個人を完成するというに止まるものではなく、かかる人間が同時に国家及び社会を形成するよい人間となるように教育が行わなければならないことを示すのが後段の趣旨である。さればといって、人格の完成が国家及び社会の形成者の育成ということに覆われ、それにつきるというのではない。人格の完成ということは、国家及び社会の形成者ということの根本にあり、それより広い領域をもっている。この広い立場で育成された人間が、はじめて国家及び社会のよい形成者となることができるのである。


ここでは個人と社会あるいは国家というものの間の関係が暗闇であり、言いたいことはわかるが、全くもって迷いの中にいて顚倒妄想にいる者の文章という感じがするだろう。以上が七識。



2.八識

八識的世界観を見てみよう。これの非常に良い例は、まさに陰陽や宇宙のバランス、人々の縁という事、こう言うものである。ここは時空に閉じ込められているわけではないが、大小遠近の趣がある(これは時空のもとになるものである。広がりと言うような情緒である)。また主客の別がある。自分とはこの肉体とこの心などとは思ってない。


大体八識的な世界観のものを見たいと思えば儒学を見ればよい。朱子学の天地についての論などよめばよいであろう。或いは五山僧の何か文章よめばすぐかる。私は中正子を読もうと思いましたが、もう分かりきっている気しかしないので読む気にならない…。


今一例として論語からひとつ取ってこよう。


陽貨第十七の四五三

  子曰く、予言ふことなからんと欲すと。子貢曰く、子もし言はずんば則ち小子何をか述べんと。子曰く、天何をか言はんや、四時行はれ、百物生ず。天何をか言はんや、と。 


この「四時行われ百物生ず。天何をか言はんや」が八識的な世界観である。因みにもっとわかっておれば、こう答えれば良いのである。


心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神やまもらん (伝道真公)


あるいは、


ちはやぶる神に向かひて愧じざるは人の心の誠なりけり (明治天皇御製)


と。ここを言い切る力量がなかったわけである。


3.九識

九識の世界観を見てみよう。ここでは心と心が合一するということがあるのである。そこを不一不ニという。心の合一と言うことで言えば、ある時禅師と弟子が対座していた。しばらくして風に風鈴がなった。禅師がいった。「どうして風鈴はなったのだ」弟子が答えた「二心寂静するが故に」と。これを心の合一という。あるいはもっとわかりやすいので言えば、道元禅師、


聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水


さて、不一不ニに生きるということはどういうことだろうか。これを最も端的に九識的なものを教えてくれているのは伝法偈であると思う。


心随万境転

転処実能幽

随流認得性

無憂喜転々


(心は万境に随って転ず

転ずる処実に能く幽なり

流れに随って性を認得せば

憂喜転々することなし)


この最後の一句は本当は「無喜亦無憂」というのだが、憂はなくてもよいが喜びはないと困るので、ここらあたりが支那哲学の日本民族に及ばぬ所で、彼らは情が自分であると言うことを全く言わないらしいのである。それは置いておいて、喜びもなければそれでは全く心は安定しないので、国もたてる基盤が得られないので、やはり喜びはいる。そうすると憂喜転々することなしとしたらちょうど良いと思ってそう変えたのである。(ちなみにそう変えたのは令和六年の春三月ごろだが、同年の十月ごろにまた変えて、「喜嬉深懐耳」とした。)


この伝法偈は正しく九識的である。他にも「風は心のままに吹き」というと九識的である。どこかの坊さん、「対象と主体の間がなくなる所に牛がゴロンと飛び出す」とか言っておられるが、そういう感じである(牛とは悟りのことである)。まさにその辺り、大智禅師の詩に曰く、


 鳳山山居 五

  万象の中、独露身

  更に何れの処に於てか根塵を著けん

  首を回らして独り枯藤に倚って立てば

  人山を見る山人を見る


これも教科書的な九識的世界観である。根とは六根、眼耳鼻舌身意、塵とは六塵、色声香味触法をいう。身は触覚、触はその対象。意は観念、想像、知識、法はその対象である。音はその音のなっている所で鳴っているのであって、その音を脳内でいちいち処理しているのではない。山も見てるところに見てるのであって、あちらに山があるということをこちらで把握してるわけではない。そんな呑気なことを言ってられる宇宙ではない。


同様のものに、大正時代の山崎弁榮上人という浄土宗の高僧がいた。光明主義という一派を上げた。この人、まだ若いころ筑波山に入り二ヶ月間念仏修行をした。そして詩を詠んだ。


弥陀身心遍く法界

衆生念仏す、仏また念ず

一心専念して能所亡ず

果満覚王独り了々


能所とは、能はその主体、所はその対象のことである。これも九識的である。ポイントは情のことを言ってないこと、また能所亡やら根塵いずくにかつけんというようなことを言ってる所である。「流れに随って性を認得せば」である。本当は情の世界に住めばそんなもの、そんな知的な濁りは不要になるのだが。



4.知と情について

ここで知について一言触れておこう。知というのは分別と不即不離である。知は分別なくして知ではないし、しかし分別を知とは言わない。知はつまり明瞭に写すを以って知とするのである。その際細微に渡るまで素描せんと思えばやはり分別心がいる。しかし写して仕舞えば無分別。こんな具合だろうか。


で、知と不即不離にある所のその分別とはどう言うことかというと、達磨大師「安心法門」に言はく、


無、自ずから無に非ず。

自心計量して無となす。

有、自ずから有に非ず。

自心計量して有となす。


という。これこそがまさに分別である。


識は十から九、八、そして七へ落ちゆくが、その際に分別して下落するのである。分別によって世界観が弱々しくまたせせこましくなってゆくのである。何を分別するかといえば、畢竟この肉体由来のものを分別するのである。


肉体とそのなかに閉じ込められてある心を自分と思ってる時その自分を小我という。それに対して本当の自分を真我という。


そうするとよく観察してみると、大体人には二つの源があることになる。真我と小我がそれである。真我が小我を飼い慣らしておれば問題はない。しかし普通は小我に負けてしまうのである。ところが時々真我の高潮により小我を押し殺してしまう時がある。それが感銘である。だから銅山録で先生が若き銅山に「感動はしたのか」と聞いたんだと思う(そういう一節が確かありました)。そんな風に小我によって来るところのものに普段は負けているのである。これを無明の闇といい、そして禅では「衆生は迷妄にして、無心の中において心を生じ、種種の業を造りて妄に執して有となす」というのである(達磨無心論)。


よってもし識を上げんとすれば、分別をひとつづつ取って行くより仕方ないが、それには感銘を受けねば仕方ない。情緒な流れれば流れたる分だけ小我をものともしないようになるのである。これが自覚への最短ルートであろう。


かように世界観とはそれ自体知的なものだが、それは感銘を受け、従来の世界観では辻褄が合わないと思い始めて、ついに改善したとき、識がひとつ上がった所の世界観を待つことができるのである。まさに水流れて川をなすがごとく、情流れて知を正すという具合である。情が先で知があとだということに注意せねばならない。



5.再び九識

さて最後にもう一つ九識の良い例として千文字から一節ひかしてもらおう。


索居閒處(サクキョカンショ)沈默寂寥(チンモクセキリョウ)

 さくきょかんしょし、ちんもくしてせきりょうたり。

 人里離れた所に住み、物静かに暮らす。世事には口を出さず俗人と交わらずひっそりと暮らす。
求古尋論(キュウコジンロン)散慮逍遙(サンリョショウヨウ)

 いにしえをもとめてじんろんし、りょをさんじてしょうようとす。

 昔の人の思想を論じたり、自然の中を心のままにぶらぶらと歩く。
欣奏累遣(キンソウルイケン)慼謝歡招(セキシャカンショウ)

 よろこびいたりてわずらいさり、うれいさりてよろこびまねく。

 喜ばしい気持ちで心が満たされれば悩みや憂いは去り、楽しいことが自然に招かれるように集まる。
渠荷的歷(キョカテキレキ)園莽抽條(エンポウジョウジョウ)

 きょかはてきれきとして、えんぽうはえだをぬきんず。

 溝には蓮の花が鮮やかに咲き、庭園の草葉は生い茂り、木々の枝は豊かに伸びる。
枇杷晚翠(ビワバンスイ)梧桐早凋(ゴトウソウチョウ)

 びわはおそくみどりに、ごとうははやくしぼむ。

 枇杷は冬になっても青々とした葉をつけている。桐は秋には早々と葉は萎れ落ちる。
陳根委翳(チンコンイエイ)落葉飄颻(ラクヨウヒョウヨウ)

 ちんこんはいえいし、らくようはひょうようたり。

 古い根はしぼみ枯れ、落ち葉は散って風のままに舞っている。
遊鵾獨運(ユウコンドクウン)凌摩絳霄(リョウマコウショウ)

 ゆうこんはひとりめぐり、こうしょうをりょうます。

 大鳥が一羽、天空のはるか高みを悠々と舞い飛んでいる。





以上のようなものが九識である。非常に知的であることがわかるだろう。