前回は九識までの世界観、知と情について説明した。今回はこの知と情を、御製を中心に文学によって見てみよう。
そもそも造化の内容は情である。一滴の情である。ここで造化とは、単細胞から人間まで進化してきたところを見るに大宇宙には善意の働いていることがわかる、そこを造化というのである。
ところで世界観と人世観(人生観ではない)については、世界観は知的だが、人世観は情的である。世界観をいくら高めたって、結局さみしがっていたらいつまで経っても造化の手足となって行為はできないようである。よって人世観のほうが大事である。(こんなことを言えるのは情の民族たる日本民族だけである。)
1.情
これまで情だ情だと言ったきたが、そもそも情とは何か。ここは極めて大事だからすこし詳しく説明しよう。
間違えてもこれは感情のことではない。感情とは浅い情である。たとえば自分が悲しくて泣くというのは浅い情である。嬉しくて泣くのが深い常である。また岡先生の説明の十八番としては、白隠禅師の話や瑞巌寺和尚の話がある。
江戸時代、豆腐屋の娘がいた。この娘がいたずらをして子を産んだ。お父さんは烈火の如く怒り、誰の子だと問い詰めた。そしたら娘、父が白隠禅師を非常に尊敬していることを知っていたから、「白隠禅師の子だ」と嘘をいった。そうしたら或いは許してもらえるかと思ったのである。そしたら父さん、白隠禅師に裏切られたような心地がして気が気でなく、その子を取り上げてすぐ白隠禅師の寺へいって、黙って禅師に差し出した。この時禅師、黙って受け取り低頭礼拝した。数日後、寒い冬の朝、豆腐屋の娘がふと見ると白隠禅師が人々に乳を乞うて歩いていた。その姿や、見るからに神々しかった。娘は涙せきあえず、ついに父に打ち明けた。
これが情である。
またある時、母ひとり子一人の家があった。その子が五歳ほどになった時、「禅の修行をしたい」と母に言った。母はしばらくして、こう諭した。「もしお前が修行がうまくいって、人からちやほやされるようになったら、私のことなど忘れてしまって構わない。でももし修行がうまくいかず、人から後ろ指されるようになったなら、いつでも帰っておいで」と。そして子は立派に修行して偉い禅師になり、松島の瑞巌寺で和尚をやっていた。そして年月もたったある日、お国から使いが来て、「あの方は何にも言わないが、私たちにはよくわかる。もうお身体もだいぶ弱ってきたから、是非今一度顔を見に帰って来てくださらぬか」と。和尚はすぐ故郷は帰って、風呂も入らぬうちから母の寝ている枕元に静かに正座した。すると母はきづき、こう言った。「私はお前に一度も便りを出さなかった。しかしお前のことを思わぬ日は一日もなかったのだよ」と。
岡先生はこの話を初めて聞かれたとき涙が止まらなかったそうである。私はこの話を学校の休み時間に読んだのだが、涙が出てきて止まらなかった。今改めて書いてみてもやはり涙が出てきてしまった。これが情である。そしてこれが人の世を包んでいるのである。
近世、江戸時代には「義理人情の板挟み」というように、人情が実によく現れた。私は人形浄瑠璃が大好きだが、それはやはり人情がよく出てるからである。私の好きな演目は「新口村の段」「壷坂霊験觀音記」「菅原伝授手習鏡」「絵本太功記」などである。どれもやはり人情物である。
2.万葉調
さて、かように情というものを確認しておいた上で、まず万葉を見てみよう。萬葉集の名のある歌人には例えば柿本人麻呂、額田王などがいる。いくつか見てみよう。
熱田津に舟のりせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎいでな
これは斉明天皇御代、白村江に参戦せんと瀬戸内海を通って船団をくんでいた。時に潮を待たんとて熱田津に停泊した。そして時は満ちた。まさに出発せんとする時に額田王の詠んだ歌である。(非常によい歌ではあるが、何やら情そのものではないと言うことがよくわかるだろう。)
玉きはる宇智の大野に馬なめて朝踏ますらむその草深野
これは中皇命のお歌である。実に雄頸である。(しかし情そのものではない。以後いちいち言わない。)
阿騎の野に宿る旅人うちなびきいもぬらめやも古へ思ふに
これは柿本人麻呂である。繊細な情緒の波打を聞くようである。
ともしびの明石大門にいらむ日やこぎわかれなむ家のあたり見ず
これも人麿である。実に雄大である。
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ
これも人麿である。これは最後の七文字がどしっと全てを支えているような歌である。このような句切れの歌が万葉には多い。これは懐かしさの情緒である。(したがって月読尊がこの時人麿にあらはれているわけである。)
淡海の海夕波千鳥なが鳴けば心もしぬに古へおもほゆ
これも人麿である。かように天智天皇の淡海朝というのは民族に情緒化されていたのである。今でもかすかに残っている。(まさに私がこんな風に書いているのだから。)
いづくにか舟はてすらむあれの崎こぎたみゆきし棚なし小舟
これは高市黒人である。非常によい調べの歌である。この調べは、高鳴るというよりかは、ずっと夢路にかよっているというような調べであり、穏やかな懐かしさという感じがする。対して鋭い懐かしさというのもある。それは、例えば額田王
夕月のあふぎてとひし我が背子が居立たせりけむ厳橿が本
である。この歌は懐かしさを実によく読んでいる。しかしこれは万葉の難読歌であって、いろんな読み方が提唱されているうちの一つの読み方で読んだ場合の歌であるから、作者は額田王となってはいるが、そこは外してみるべきである。
また少し有名度が下がる歌人の歌でも実に良い歌がたくさんある。
我が背子はものなおもほし事しあらば火にも水にも我なけなくに
なにやら人情を見るようである。涙が出てくるでしょう。時代劇「ぶらり新兵衛の道場破り」を見れば、まさにこんな夫婦が出てくる。
うちなびき春きたるらし山のまの木末の桜さきゆくみれば
これは桜が咲き始めているのが嬉しくて堪らないというような歌である。喜びの歌である。
以上のように万葉の歌は情そのものはよんでいないが、実に雄大で、生き生きとしていることがわかる。この情操的基盤の上になら安定した国をたてられることがわかるだろう(国を建てるに情操的基盤が一にも二にも必要である)。
3.仏教による弊害〜平安調
ところが仏教が入ってきて、とくに山上憶良がそれをよく勉強し、聖武天皇が仏教を重んじ、山上憶良をよく登用されてから、万葉集には仏教による影響が甚だしく出てきた。
常盤なすかくしもがもと思へども世の事なればとどみかねつも
これは山上憶良である。何にも悲しむべきところではないのに…。仏教かぶれである。
生ける者遂にも死ぬるものなればこの世なる間は楽しくをあらな
世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
これらは大伴旅人である。家持の父である。誠に仏教かぶれの勢い甚だしく、また情けない有様である。これまでの雄大さは何であったのだろうか。
うつせみの世は常なしと知るものを秋風さむみしのびつるかも
丈夫は名をし立つべし後の世に聞きつぐ人も語りつぐがね
これは家持である。大して特筆すべき歌人ではないのに、どうして取り上げられるのだろうか。
以前に書いたごとく、山上憶良や大伴家持などは小我より来るものを多く入れているのであって、それで参考にするに値しないのである。そしてその小我を増大させたのが何者でもない仏教思想なのである。諸行無常とか一切皆苦とか言う言葉を誤解したのであらう。非常に弊害である。
この続きは、平安時代に入ると源氏物語という淫乱書が現れる。江戸時代の天皇陛下に後光明天皇という方がおられるが、この方、源氏物語などという下品なものをなぜ読むのだと仰ったそうである。誠にしかり!
そして和歌においては百人一首を見ると、
花の色はうつりにけりないたずらに我が身世にふるながめせし間に
とか、
あけぬれば暮るるものとは知りながらなほうらめしき朝ばらけかな
とか、何かそういう非常に優雅だけども堕落した風になってゆくわけである。いい歌もあるが、それも何やら弱々しい調べである。例えば
これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢阪の関
これは本当は人情の枠を担当するような歌のはずだが、さっき見たような人情話と比べれば全くその情緒の明確さにおいてボロ負けしている。
久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ
小倉山みねの紅葉場こころあらば今ひとたびの御幸またなむ
さびしさに宿を立ちいでて眺むればいずこも同じ秋の夕暮れ
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ
これら全てよい歌であるが、万葉に比べれば非常に弱々しいことがわかる。そして和泉式部、その弱々しい平安の雰囲気を夢路にかよはせ、何となくそれを悲しんでこんな歌を残した。
暗きより暗き道にぞいりぬべしほのかに照らせ山の端の月
よく世の風を受けた歌であると思う。そうして鎌倉時代になると西行がでる。
心なき身にもあはれは知られけり鴨たつ沢の秋の夕暮れ
また源実朝が出る。
大海の磯もとどろによする波われて砕けてさけて散るかも
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に船のよるみゆ
これなんか、万葉調の復活だと言われているそうだが、どこがそうなのかさっぱりわからない。確かに似ているところもあるが、それは形式である。肝心な情緒が雄大さにかける。それは即ち実朝の心が曇ってきているのである。これは別に実朝に限らず、当時の日本の中央に近い人々の心が曇っているのである。曇った人に晴れた形式を与えても、そもそもそんな晴れというようなものがあることすら知らぬのだから、使いようもないのである。しかし実朝はこんな歌も残している。「道のほとりにをさなき童の母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、父母なむ身まかりしと答へ侍りしを聞きて、
いとほしや見るに涙もとどめかね親もなき子の母をたづぬる
これは情である。
そして最後は鶴岡八幡宮で暗殺されたのである。その日の出立際に詠み残した歌、
出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
また定家の歌は、
見渡せば花も紅葉のなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
春の夜の夢の浮き橋とだえして峰にわかるる横雲の空
上手いが、非常に弱々しい調べである。
4.御製
かようにして万葉調から平安調へ移って行ったのだが、実は御製を拝するとまた色々違っているのである。(天皇陛下のお詠みになった歌を御製という。)
万葉時代の御製から振り返ってみよう。万葉に出てくる天皇のうち、一番古きは舒明天皇、御製
夕されば小倉の山になく鹿は今宵はなかずいねにけらしも
実に良いお歌である。また天智天皇、
わたつみよ豊旗雲に入り日さし今宵の月夜あきらけくこそ
また持統天皇
北山につらなる雲の青雲の星さかりゆき月もさかりて
やはり万葉調であって雄大雄頸である。しかし平安時代になってから、御製も平安調になりゆく。しかも舒明天皇までは国のことを歌によむという国見の歌があった。例えば第十五代応神天皇、
千葉の葛野をみれば百千足る家庭もみゆ国の秀もみゆ
十六代仁徳天皇、
おしてるや難波の崎ゆ出で立ちて我が国みれば粟島おのころ島あぢまさの島もみゆさけづ島みゆ
第廿一代雄略天皇、
籠り国の初瀬の山青旗の忍坂の山は走りでの宜しき山出立のくはしき山ぞあたらしき山の荒れまく惜しも
第卅四代舒明天皇、
大和には群山あれどとりよろふ天の香具山のぼり立ち国見をすれば国原は煙たちたつ海原は鴎たちたつうまし国ぞ秋津洲大和の国は
という風にあったのだが、それもすっかりなくなってしまった。そこで朝廷の堕落具合をちょっと心配になった造化は、第六十代醍醐天皇としてあらはれて色々と周りの者に手本を見せてやった。
ある寒い冬の夜、側近が天皇に衣を持ってきた。それを醍醐天皇お召しになろうとしたその時、手をしばし止めてこう仰った。「私の場合は寒さを凌ぐ衣を用意してくれる者がいる。しかし民はどうだろうか」と。そして醍醐天皇は衣をついに召さなかった。(これを私は「寒衣の事」とよんでいる。)
また醍醐天皇はつねに微笑ましく臣下に接しておられたが、それは皆に心置きなく本心を言いやすいようにということであった。
また臣下にいたずらに着飾ることを制せられた。
かように醍醐天皇は平安時代にあって造化の光をそのまま現されたのである。それによってこの時代とそれの水尾期たる村上天皇時代のことを「延喜天暦の治」といって日本民族に情緒化されたのである。
さてそのようになんとか保ちつつやってきていたご皇室だが、延喜天暦の後は藤原家にのっとられ続けることになってしまった。
そうするとここに造化二尊は皇室を守らんと、祓戸大神の化身を送った。それが第71代後三条天皇である。この天皇の御製は一風変わっている。
この天皇未だ春宮におられたとき、お世話になった学士に太宰大弐實政という者が此度甲斐守を拝したので、任地へ下らんとする所、一首たまはった。その歌、
思ひ出でば同じ空とは月を見よ程は雲居にめぐり逢ふまで
また詩を賜って曰く、
州民たとひ甘棠詠をすとも
忘る莫れ、多年風月の遊を
と。甘棠詠とは、周の宰相が甘棠の樹の下で民の声を実に丹念に聞きよく訴訟を裁いたので民がそれを慕ってその木を切らずに残しまた歌に歌ったという故事につけているわけである。
この御製は一風変わってるでしょう。これは君臣の情である。こう言うものが出てきたのである。と同時に政治的には院政が始まるのである。
第75代崇徳上皇、皇位継承の争いからついに武士を用いて京に戦を起こしてしまわれた。保元の乱である。崇徳上皇側には藤原頼長、平忠正、源為義、為朝がつき、対する後白河天皇側には藤原忠道、平清盛、源義朝がついた。
頼長の差配が下手くそだったので、戦は崇徳上皇の負けにおわった。この時崇徳上皇は、京都から滋賀へ越える山路を数名の武士と共に逃げておられたのである。
枯れ木の枝に足を切られながら山路深く落ちゆくほどに、意識も朦朧としてこられ、ついに道に伏して仕舞われた。為義恐れながら申し上げる様は、「定めて敵は我らを追ってきましょう。早やお立ちになってくださりませ」と。しかし上皇、「誰かある」と仰るので、武士の物ども「某候」と順に申し上げ、そばな使えるとまず水をくれと仰るので、ちょうど通りかかった何処の寺かの僧侶に水を分けてもらい、上皇に差し上げた。
上皇これをお召しになる程に、ゆるりと仰せ出されし様、「私はここに残る。お前たち、いずくなりとも落ち延びて命を全うするがよい」と。ここに為義、涙をとどめて申しあげる、「一度君に捧げたこの命、どこへ何しに参りましょう。さあ敵がすぐそばへ迫ってまいります。お逃げください」すると上皇、「私と共にゆけば、到底逃げられまい。捕まった暁には、身分の故に私だけ助けられ、お前たちと運命を共にすることが出来ぬ。ねがはくば各各、思うように生きよ」と仰せられれば、為義以下の武士みな鎧の袖をぞ濡らしける。
これが保元の乱の時の崇徳上皇である。その上皇の御製に次のようなものがある。
見る人にもののあはれを知らすれば月やこの世の鏡なるらむ
これは月読尊があらわれたのである。しかし平安調によって遮られ、さみしさと現じた月読尊である。
さてこうして時代は源平合戦になり、安徳天皇ご入水なり、そして後鳥羽上皇の御代になるのであるが、この後鳥羽上皇はこれ皇運中興の祖であって、非常に大事な方である(これは何の化身であろうか…)。
今一度御製を拝見してみよう。
心をし天照神にかけまくもかしこき光くもりなき世に
なるほど、これは天照大神の荒御魂ではなかろうか。後鳥羽上皇は天照大神の荒御魂であろう。
岡山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ
これは大義名分、正名の志である。荒御魂は使用する言葉や道理に漢意をお選びになった。また後世が皇室を育ててゆくのに必要な材料を全て明らかにされている。
夜を寒みねやの衾のさゆるにも藁屋の風を思ひこそやれ
これは醍醐天皇「寒衣の事」である。
見渡せばむらの朝けぞかすみゆく民のかまども春にあふころ
これは仁徳天皇「民のかまど」である。
治めけむ古きにかへる風ならば花散るとても厭はざらまし
これは「延喜天暦の治」である。全く弱々しい平安調から脱出していることがわかるだろう。これはご皇室の葦牙である!そして荒御魂らしい御製、
我こそは新島守よ隠岐の海のあらき波風こころして吹け
をもってその御生涯をおへる。ちなみに月読尊に関する御製は、
ひろ沢の池にやどれる月影や昔をうつす鏡なるらむ
がある。崇徳上皇と比べて見ると懐かしくなってきている。寂しくはなくなってきている。ここは重要な点である。次代土御門天皇の御製になると、
毎夜坐禅観水月
むねの月こころの水も夜な夜なの静かなるにぞ澄み始めける
という風に知的な趣が出た。そして順徳天皇御製には、
月前竹
竹の葉にみがける玉の秋の月千代も八千代も枝ながら見む
が出る。これは懐かしく、更にそれが嬉しいという、非常によいお歌である。歴代御製名歌集に入れるべきお歌であると思う。
かように、ご皇室においては、平安時代に一度邪気に脅かされたが祓戸大神(後三条天皇)と天照大神の荒御魂(後鳥羽上皇)により正気に転じたのであると言うことがわかる。
さらに続けてみると、後嵯峨上皇の御製にまた新たな変化がおとずれる。
足引の山田の早苗とりどりに民のしわざはにぎはひにけり
これは天照大神の和御魂である。また、これは情である。かくして御製に明らかなる情が現れたのである。
5.情の和歌をめぐって
このようにして見てくると、情そのものを詠んだ歌というのはなかなかないと言うことがわかる。御製については、後嵯峨上皇以後は天照大神の和御魂のあらわれが増えるのだが、平安時代にはそんなものは全く期待できない。万葉集の歌は、情そのものと比べれば知的な趣がすることがわかるだろう。万葉の歌の特徴を一言で言えば雄大さとなると思うが、情そのものの世界に雄大さというのはないのである。
ここで情そのものを詠んだ歌はどこまで遡れるのかという問題が起こる。そこで調べてみると、上代歌謡にまさに情そのものの歌が残されていたのである。
道の辺の榛と櫟としなめくも言ふなるかもよ榛と櫟と (琴歌譜歌謡集)
道の辺のはりとくぬぎの木は何やら上品そうに話し合っているのだろうか、はりとくぬぎと、というのである。また、
三諸は人の守る山本辺はあせび花さき末辺は椿花さくうらぐはし山ぞ泣く児守る山 (万13,3222)
三輪山は人の守る山、ふもとにはあせび花、末の方には椿の花さいて実に心嬉しい山である、泣く児を見守る山である、というのである。
これらは明らかに情の世界に住んでいる人しか詠めない歌である。このような歌があったのである!
但しこれらはほとんど民謡というべきもので、それならば梁塵秘抄にもやはりみられるし、多分庶民は情の世界に住んでいたのだろうと思われる。
しかし知識人が情を忘れてしまった。そのまま戦国時代に入りしばらくすると情を思い出し始めたのだろう。これは辞世を見ればわかる。それで江戸時代にはいり、庶民の芸能も情的であり、それなりに情の人の世になったのだが、そこに黒船が来て一気に西洋化したものだから、また情を忘れてしまった。今度は政府と国民に情緒的乖離がないので非常に同期している。しかしご皇室だけは後鳥羽上皇以来連綿と世を祈り民を祈る伝統を引き継いでこられており、今の世はここだけは冴えているのである。
こんな有様のやうである。やはりおもはずにはいられない。拙歌一首。
ひとしれず世を照らしくるすめらぎを守りつたえん千代に八千代に