民族的情操というのは、時の内容である。しかし普通人は時などわかる所に住んでいない。普通は七識にいる。


心を層に分けてとく。各層は人の無意識的な心の里。住処を表す。


七識  小我 この肉体とその中にある心

八識  主客現成 二元的

九識  心の合一 不一不二 情への道が開ける

十識  真情 まごころ

十一識 純粋直感 風鈴

十二識 民族的情操 時の内容 日本的情緒の蔵


ここまでは本当の身体。ここからが本当の心。心そのもの。無ともいう。


月宮殿 無量の懐かしさ 更に純化された情緒


 ※ 岡先生は更に詳しいが私にはまだここまでしかわからない。


識が変わると何が変わるのかといえば、世界観、人世観、自然観の三観が変わる。ここに各識における参観の有様を纏めること


所で皇統は少なくとも12識である。よってこれは物質主義や個人主義的にかぶれてる人にはわからない。


民族といっても皇統といってもあまり内容は変わらない。いづれも12識をさす。でも皇統と言った方が鋭さがある。


※ ここに使う識は岡先生とは少し違う可能性があります。特に私はまだ73年くらいまでしかまともに観たことがありません。あとは少し話に聞いていたり、断片的に詠んだことがあるくらいです(春雨の曲七次稿、天井の歌を聞いた日、真情二十周忌記念、など)。


(ここで一言。識というのは言わば物理法則。帰納的に導き出したひとつの主張で、極めて学問的であって、そこに人による差はないと考える。つまり客観的事実たりえる。)


所でここに一つ問題がある。それは唯識論は個を基盤に考えたものだが、これを民族にまで適応する問題である。これが出来なければ本当の歴史、本当の向上の有様を観てゆくことはできないので、歴史をやる上での基本的な問題である(岡先生は解けてたんだろう)。