我が国の歴史は二千年というが、そんな浅いものではない。
試みに抜粋得勝〔1〕にならって己の情緒を観察してみよ。その豊かさに驚くだろう(驚かなければ話は進まない)。和歌を眺めてごらんなさい。例えば夕日なら、葦鴨のうちむれている夕日と、はなすすきの靡いている夕日と、三輪山を照らす夕日と、海原の夕日と、どれも違うでしょう。また、
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ
というような、さっきの雄大なのに比べて淋しげなものもあるでしょう。かように夕日ひとつとってもその趣は無量である。
人の世はいかがでしょうか。例えば岡先生おはこの瑞巌寺の和尚の話、白隠禅師の話、また魔法の森、可哀想な鳥の話など、数々である。私のものだと、傘地蔵の昔話、でんでんむしの悲しみ、ごんぎつね、マッチ売りの少女、吹雪に遭難して一人娘を抱いて死んでいったお父さんの話、様々ある。
また武家の話なら、討死をわかっていながら尊氏の数万に当たった楠木正成。その自害に居合わせて、見て見ぬ振りはできんと一緒に自害した菊池武吉。だれも理解してくれないうちから「もののふの上矢のかぶら一筋におもふ心は神ぞしるらむ」といって討死した菊池武時。此度の合戦は今生の暇乞いと思い定め、如意輪堂の壁に名前と享年を連ね、吉野山をうって出て飯盛山の麓で討死した楠木正行。
武家以外では、「さねさし相模の小野の燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」と詠んで入水された弟橘媛命。私よりあなたの方が高御座に上に相応しいからといって自害された宇治稚郎子尊。私が死んで国の礎が固まるなら本望であるといって、蘇我氏に囲まれてる館へ入って死んだ山背大兄皇子。
そして幕末なら皇統を中心にした国(皇国)を夢見て旅に死んだ高山彦九郎。やるべき仕事はやり切ったらさっさと殺されん為に自首し、
親思ふ心に勝る親心けふの訪れなんときくらむ
と詠んだ後、
このほどに思ひ定めし出立はけふこそうれきかりける
と詠んで死んだ吉田松陰。西郷千恵子、白虎隊、新撰組と、孝明天皇の御宸翰を旗印に錦の御旗の薩長と最後の最後まで戦った会津。「この辺でもうよかろう」と言われて自害した西郷隆盛。
かように日本民族の情操は豊か極まりない。道を歩いていて雪が降ってきたら、美しいなぁと思うでしょう。その美しさ、「花と散り雪と消ゆ」「花は散るのが覚悟。雪は消ゆるが覚悟」かぁと思うでしょう。すると特攻隊の花吹雪を思うでしょう。ほがらか隊の写真が思い出されるでしょう。そして悠久の高天原に帰るというのはどんなに懐かしいんだろうなあと思うでしょう。そしたら夕日を思うでしょう。或いは打ち寄せる駿河の波を思うでしょう。常世なす伊勢の潮路を思うでしょう。そうすると南洋の島々を思うでしょう。
かように日本民族の情操の豊かさは極まりない。これ、二千年でできると思いますか。到底思えない。
例えば晩御飯を作りますね。「今日は何しようかな。そういえば豚バラを冷凍してたな。そしたら豚肉焼くか。いっつも醤油とみりんで炒めるだけだから面白くない。この前唐揚げした時、味噌で下味付けたがあまり馴染んでなかったのが悔しかったから、今日それ試してみよう」ということで、豚肉に味噌だれをつけてしばらく置いたあと、焼きますね。「そう言えば卵も使わないかんから、適当に焼けたら卵といて入れてスクランブルエッグ的なものにするか」と思って、豚両面こんがり焼けたら卵を流し込みますね。でいい感じにスクランブルしたら、買ってあったもやしを入れて、蓋をしてすこし蒸しますね。完成して、非常に美味しかったです。
何が言いたいかと言えば、この味噌だれを付けて肉を焼きたいという情緒、浅い情緒ですが、これはいつ情緒化されたんでしょうか(情緒化とは情緒と現れる為の貯水タンクに入れる工程のようなものである)。明らかにこれは今生ですね。先週とかでしょう。何故なら先週唐揚げで上手くいかなかったが、上手く行ったら美味しいだろうなと思ったことが印象に残っているからである。更に、この情緒は来世でも現れることがあるだろうか。これを見るなら今生における過去世の情緒を見れば良いが、そんなもの全然感じないだろう。あったとしても殆ど影響しない。それくらい弱い。
かように今生限りの情緒化は極めて浅いのである。浅いのではあるが、しかし情緒化されたものがまた現れるということはある。これは今生における回りである。
所で、夕日の悠久さはいつ情緒化されたのだろうか。白鳥のあはれな鳴き声はいつ情緒化されたのだろうか。ひぐらしは。風鈴は。細波は。
かように観てゆくと、日本における自然は極めて深くて古いということがわかるであろう(他の国は知らない。ネパールは非常によいようである)。(ビルを建てたり都会にしたり、近代都市にすることがどれ程恐ろしいことか、よくわかるでしょう。)
また自然に限らず、人のために死んでいった人の美しさ、皆んなのために散った人の崇高さも然りである。いつ情緒化されたのかとんと検討つかない。相当古いだろうということはわかる。
かように民族的情操というのがある。これは僅々二千年でなれるものではない。
〔1〕大森曹玄「禅の高僧」より
輪廻の苦をまぬかれんと思はば、直に成仏の道を知るべし。成仏の道とは自心を悟る是なり。
自心と言ふは、父母もいまだ生まれず、我が身もいまだなかりしさきよりして、今に至るまで移りかはることなくして、一切衆生の本性なる故に、是を本来の面目といへり。
この心もとより清浄にして、此身生るる時も生るる相もなく、此身は滅すれども死する相もなし。又男女の相にもあらず、善悪の色もなし。たとへも及ばざるゆえに是を仏性と云へり。しかも万の念、此自性の中よりおこること、大海より波の立つがごとし、鏡に影のうつるに似たり。
此の故に自心悟らんと思はば、先ず念の起こる源を見るべし。
ただ寝ても寤めても立居につけても、自心これ何物ぞと深く疑ひて、悟りたきのぞみの深きを、修行とも、工夫とも、志とも、道心とも名づけたり。またかやうに自心を疑ひて居たるを、坐禅とは云へり。(下線部編者)