幕末において、薩長のご皇室を利用した政の策略、やっぱり褒めれない。
但し西郷隆盛はその遺訓録を読めば実に見る目をもってる事がよくわかる。これは薩摩。
また長州にも吉田松陰一門がいて、勿論これは凄い人である。
さて、負けた会津の方を見ると、こっちも孝明天皇の御宸翰を以って官軍の旗印となし、若松城を枕に討死しようとしたのであった。そこで生まれたのが白虎隊、二本松少年隊、そして西郷頼母の妻、千恵子である。
なよ竹の風にまかする身なれどもたわまぬ節のあるとこそきけ
こちらも見るべきだという気が実にする。
すると、何かひとつの大きな心、源があって、それが敵味方に分かれて出てきたんだと言う気がするでしょう。一つには長州に松陰となり、ひとつには会津に容保公となり。また一つには薩摩にせごどんとなり。そして松陰門下による烈々たる勢いに、他の小器の頭をもって大政奉還がなされた。
そしてその小器の頭の為に戊辰戦争がおこった。すると容保公の深い悲しみ、会津の者たちの心の繋がりが白虎隊や西郷千恵子とあらわれた。
そして、松陰門下の烈々たる勢いに初動をしてもらっただけの小器の頭たちは新たに国づくりを始めたが、その有様に激怒した神風連。かようにして西郷隆盛は挙兵したのである。つまり母が子を殴るようなものである。しかし子は懲りずに小器によって突き進んでしまった。
と言う風な筋書きだろうか?
で、この神風連、誠に何か、僕にとっては見るべき物だと言う気がする。岡先生も詳しく書いておられた(流露)。彼らは、薩長のやつらが作ろうとしてる国のあり方がおかしい、全然神道に基づいてない、西洋かぶれではないかといって怒ったというのである(刀狩はひとつの口実として、機としただけではなかろうか)。
そう思うと、高山彦九郎の歌、
我を我としろしめすかやすめらぎの玉の御声のかかる嬉しさ
がよくわかる。この世にはなかなか人というものは居ないものらしいですからね。また同志というのは得難い。
かくてまためぐり逢はむも難き世に今宵の春よげに惜しむべし
伏見天皇の御製です。よくわかりますね。