さて続きです。山背大兄皇子が討死された所でしたね。


その後、やっとあれが起こります。そう、「乙巳の変」です。これで皇極天皇は譲位され、孝徳天皇がご即位になり、中大兄皇子が実権をとられることになりました。そして改新の詔が出されます。明治維新の詔みたいなものでしょうか。


ここでひとつ注目しておきたいのは、聖徳太子が定められた冠位十二階、ありましたね。あれがなんと、なんか増えまして、十九階になってしまったんですね(今後も増え続けます)。これ、なんか、褒められませんね。大体、色々付け足すのは簡単なんですが、できれば簡素にしていって欲しいものです。目覚めたら少なくなるものです。尺八なんかあれ元々六つも穴があったのに、日本へきてから五つになったんですから!また日本の歌だって、初めは民謡で語数あまり決まってなかったんでしょうが、短歌になり、連歌になり、最後俳諧になって字数は減ってるくせに、内容は深まってるんですから!!こんな風にしてほしかったものですが、ダメだなぁ〜この辺がなんか物質主義的な気がしますね。きちんと支那の制度を取り入れ切れてないわけです。だから西洋人に馬鹿にされるんだ。きちんと頭使わないと!!

更にいうと、この、冠位の使い方がなんか、元々聖徳太子の御意志である、家柄に捉われずというところ、全く引き継げてない気がしてなりません。身分制度やら家柄の背中を押すような位の授け方が多い気がします。が、具体的な記事はどこに書いてあったか忘れたので、また見つけたら補足します。


さてそれで、とにかく目覚めていないながらも改革を進められました。この時の反動として、倉山田石川麻呂と蘇我日向の一件。それから有間皇子の一件がありましょうね。この辺りは私、特に後者は、井上靖さんの「額田王」で読みましたから、凄くイメージが湧くわけです。


何があったかというと、有間皇子の方だけ説明すれば、つまりどんどん独断で改革してゆかれる中大兄皇子に対し、抵抗感があった有間皇子を利用して、ある人が謀反を唆したんですね。蘇我赤江…だったかな。それで、「謀反の疑いあり!」ということで捕まりまして、当時中大兄皇子は紀伊の温泉におられましたから、連れて来いということになりました。その道中、まだ沙汰も下されてないうちから、有間皇子が詠まれたお歌は、


 磐白の 浜松が枝を引き結び 

   まさきくあらば また還へり見む


です。結局これが御辞世になりました。わかっておられたのかな…(実朝と同じですね。実朝:いでていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな)。


で、今都は難波にあったんですが、また飛鳥に戻ることになりました。その時、孝徳天皇は難波に止まると仰ると、ならばお留まり下さったら結構ということで、独り取り残される結果になり、ついにそこで病にかかられ、崩御されます。誠に不幸な御最後だった事でしょう。


ついで斉明天皇がご即位されました。皇極天皇と同じ方です。中大兄皇子の母君です。


この時、百済が滅亡しました。中大兄皇子と中臣鎌足はこれを助けることに決します。天皇陛下もお連れして、皆で九州に御幸です。


この際、伊予に潮を待つため停泊のみぎり、額田王歌に詠みて曰く、


  熱田津に 船乗りせむと月待てば 

     潮もかなひぬ 今はこぎいでな


で、なんと白村江の戦いで負けました。大敗でした。さっき蝦夷平定で勢いの付いてた日本海軍が負けたわけですね。


これで水城を九州につくり、また城を九州に三つ程つくり、そこに防人を配置し、また都は近江に遷されました。もう大変ですね。この時、近江遷都の時に額田王のよまれた歌、


 三輪山を しかも隠すか雲だにも 

    心あらなむ 隠さうべしや


これは有名ですね。これを読むと、僕も三輪山、恋しくなります。あの春雨の時の三輪山、うるはしかったなぁ…


ちなみにここに拙歌をあげておきます。恥ずかしながら。


 まきむくは 國のまほろば入陽さす 

   稲野笹原夕映えに 我立ちをれば古の 

      風ぞこひしき 我立ちをれば


あとついでにこれも。


 宇陀川の 川の瀬よどみ 深緑の

   鳥たち泳ぐ宇陀川のよど


というわけで、このあと中大兄皇子は天智天皇にご即位されますが、すぐに中臣鎌足はなくなり、ついで天皇も崩御されます。そして壬申の乱が起きるのでした…


つづく