日本歴史の通史をみて、そこにどんな風に高天原が現成しているのかを見る計画を、先月の暮にたてた。


今月は飛鳥時代と奈良時代を情緒化してしまおうと思い、欽明天皇の條から読み始めてから約二週間(もう二週間か…)。


法華経よんだり、聖徳太子の義疏読んだり、万葉集あたったり、色々まわってやっと落ち着いた。いま天武天皇が崩御された所である。


この時代はなんと言っても和歌が多い!!

やっと華やかな時代に入りました。日本歴史というのは、歌で織りなすと物凄く美しくなるんですよねぇ〜!ちょっと覗いてみますか??


では私好みの主要なものだけ。


欽明天皇御宇の出来事は、仏教公伝と伽耶滅亡です。次の敏達天皇御宇には廃仏運動が起こったりもしたのだが、その次の用明天皇の御宇に何と蘇我と物部で戦が起こり、蘇我が勝ちます。これで崇仏でやっていくことが決まります。


その後の崇峻天皇が中継ぎとしてご即位。しかし後で暗殺されてしまいます。


で、聖徳太子を摂政におき、推古天皇がご即位になります。この聖徳太子はやはり人望も厚く、実に賢かったのでしょう。


(でも法華経義疏とか読んでみると、なんか別にそんなに目覚めてなさそうなんですが…17条の憲法も、どうなんでしょうか。なんか微妙な感じがします。)


まあそれで、聖徳太子なくなりました。推古天皇も同時に崩御されました。ここで皇位継承の予定が狂いました。ここが有名な場面ですね。


聖徳太子の長男たる山背大兄皇子か、敏達天皇の孫である田村皇子か。


揉めに揉めた結果、山背大兄皇子派の境部魔理勢という人が蘇我に討たれて、田村皇子が立てられた。これが舒明天皇である。


こんな即位の仕方をされた舒明天皇、御製としては次のものがある。


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙たちこめ海原は かまめ立ち立つうまし国ぞ 秋津洲 大和の国は


夕さらば 小倉の山になく鹿は 今宵は鳴かず いねにけらしも


誠に深い彩の御製に思えてきますね…。非常に深い悲しみに思えます。特に二つ目なんか。(他にも御製ありますが、割愛し奉ります。)


で、舒明天皇は御悩にて崩御あらせられた。次はその皇后陛下であられた方がご即位になった。これを皇極天皇の申し上げる。


この御宇、ついに蘇我が山背大兄皇子に兵を差し向けたんですね。山背大兄皇子は斑鳩の宮におられましたが、蘇我の兵が向かっているとお聞きになると、すぐにこちらも兵を準備して防がせました。しかし「ここは一旦引こう」ということになり、お堂の中に馬の骨を撒いて、自ら火を放って裏から脱出されました。蘇我勢は焼け跡から骨が見つかったので、てっきり上宮王家はこれで滅亡したと思い込みました。ところが山背大兄皇子たち御一向は生駒山へ逃れておいでだったのです。


その事を俄かに伝え聞いた蘇我勢、定めし兵を整えて我らを攻めてくるな違いないと思い、再び斑鳩宮に兵を進めました。


その頃生駒山では、三輪の某という家臣(名前は忘れました)が大兄皇子に進言して申さく、「これから東の方へ落ち延び、壬生の地にて兵を整えて、再び都に上れば必ず勝は皇子様のものでございます。はや、再起を図りましょう」と。しかし皇子は、まさに大船のゆたなるお振舞いでこの様に仰られた。「確かに、お前のいう通りしたら必ず勝だろう。しかし私は、私の為に民を煩わすことを欲さない。どうであろうか、戦に勝たなければ丈夫とは言わぬものか。戦に負けたとても、それで国の結束が固まるものならば、それでこそ丈夫というべきではなかろうか。私は斑鳩へ戻ろうと思う」と。それで、蘇我の兵が囲んでいる斑鳩の宮へわざわざお戻りになったのである。そして「我が身一つをくれてやる」と言い残して、討死あそばされたのである。


こんなことをすると蘇我氏の人望が落ちるのも必定である。しかもここを見逃さなかったのが、中臣鎌足である。まさしく山背大兄皇子が仰られたように、御討死なさったお陰で結束が固まり、大化の改新が進んだのかもしれない…



全然和歌、出てきませんでしたね。🤣


つづく…


(※写真は纏向の夕焼けです。)