今大化の改新を勉強している。
どうも十二階の冠位を太子が定められた所を、中大兄皇子はそこに七増やして十九にされたそうである。
まあそれは良いとして、しかしどうも気になるのは、そんなもの、急に新たに権威の肩書を作りましたといったって、それがきちんと皆の間で権威として見られるかどうかは全くの別問題である。まさに、急に上層部が法律を決めたところで民衆からしたらなんでそんなもん従わないかんねやと思うがごとしである。
ところが、我が日の本の場合は、 天皇陛下がおられ、この皇統というものが非常に重い伝統を継いでいる。
よって新たに定まった冠位でも決まりでも、 天皇陛下の詔だと思えば、これは非常に重いものとなるわけですね。こういう事なのかもしれない。
普通、ある国があって、その国が改革や革命を起こすとき、同じ志を持ったひとつの徒党が政権をのっとり、その間で色々決めるから、それはその徒党の間では権威はあるが、他の徒党からすれば全く関係ない。
何故なら、例えばある人の話を聞いて、ほーんそんなもんかと思ってはみたが、しばらくたつと「…それはどういうことだ…?」と思う、こういう風にして疑問とか批判とかいうのは生まれるわけだが、まさにそれは、岡潔先生の神々の花園あたりの言葉遣いをすれば、どんな民族の天のメロディが夢路に通っているのかという事になる。
まことに自然界というのは第二の心のなかに浮かぶ一嘔のごとしという感じがするわけです。
さて、今日は小樽に行き、日舞を拝見してきます。