昔昔,あるところに師匠と弟子がありました。ある日,師匠が弟子を呼んで話をしました。

「よく御聞きなさい。ある田舎の村に兄弟がいた。まだ十にも満たない頃,両親を病気でなくした。その日の夜,二人は今後のゆく末について次のように相談した。『弟よ,こんな小さな村にいたんじゃ,ちっとも面白くない。賢くもなれない。有名にもなれない。だからこんな村,さっさと出ていくべきだ。弟よ,私は明日にでも出立する。さてお前はどうする』『兄さん,私はこの村が好きだから一生この村にいたいと思います。』そして二人は相別れた。さてお前,これについてどう思う。兄と弟,いづれが目覚めた人だろうか。」これについて弟子が答えました。「はい先生。これは一見すると弟の方が小欲知足を体得しており,目覚めた人のように思えます。しかしこのように考えてはどうかと思うのです。実は兄は大いに張り切って物を言っており,活き活きとしていたのだとしたらどうだろうか,と。もしそうだとすれば,明らにこれは,英雄は機を貴ぶというが如くであって,まだ自覚はしていないかもしれないが,目覚めかけている者,あるいは目覚める素質を十分に持っている者だという風に思えてきます。このように考えると,結局重要なのはその人が活き活きしているかどうかであって,何をしようとしているのか,どのような言動をしているのかではありません。先生,私はこう思うのです。」すると師匠が言われた。「よろしい。よろしい。人は,物を言うにも分別し,事を為すにも分別する。しかし,そのように分別している人を見て,それに執して分別を起こせば,相手もそれに執して分別を起こす。悪い因縁というのはこのようにして生じるのである。自然なる分別に対し,決して執してはならない。分別に分別で返してはならない。ただその心だけを見るのである。ところで心というのはつまり何だろうか。知だろうか。意志だろうか。情だろうか。お前,どう思うか。」これに対して弟子が答えた。「はい,情です。」「よろしい。よろしい。心の働きに知情意とあるが,これらの基はことごとく情であって,知や意はそれが形を変えて現れたものに過ぎない。知が活き活きとする,意が活き活きとするとは,意味をなさないであろう。活き活きとするのは情である。心というのは結局情である。情に色々な現れ方を付け加えて考えたものを心と呼んでいるようなものである。だから,つまり人を見るとき,必ず相手の情を見るとよいのである。これが批評の基礎である。わかるか。」「はい,先生。」