春の匂いが、少しだけ苦手になったのは

きっとあの日からだと思う。

大学の構内に咲いていた桜は、まだ満開だった。

風が吹くたびに、花びらがひらひらと落ちてくる。

あの日のことを、今でもはっきり覚えている。

軽音サークルの新歓ライブ。

人が多すぎて、正直帰ろうと思っていた。

「うわ……人多すぎ」

体育館の前で立ち止まる。

中からはドラムの音とギターの音が響いていて、

楽しそうな笑い声も混ざっていた。

こういう場所は、あまり得意じゃない。

誰かと話すのも、

知らない人と盛り上がるのも、

少し疲れてしまう。

「やっぱ帰ろうかな……」

そう呟いて、振り返ろうとした時だった。

「入らないの?」

後ろから声がした。

振り向くと、ひとりの女の子が立っていた。

肩までの黒髪が、風で少し揺れている。

白いシャツに薄いカーディガン。

春らしい、柔らかい雰囲気の人だった。

「え、あ……いや」

うまく言葉が出ない。

「人多いの苦手?」

少しだけ笑いながら、そう聞いてくる。

「……まあ、ちょっと」

正直に答えると、彼女はくすっと笑った。

「私も」

その一言で、少し空気が軽くなった。

「じゃあ、外で聴こっか」

そう言って、彼女は体育館の横のベンチに座った。

中からは、バンドの演奏がかすかに聴こえてくる。

遠くで鳴っているギターの音が、春の風に混ざっていた。

「新入生?」

彼女が聞く。

「うん。そっちは?」

「私も。今日初めて来た」

そう言って、空を見上げた。

「でも、人多すぎて入る勇気出なかった」

少し恥ずかしそうに笑う。

「分かる」

思わず笑ってしまった。

なんとなく、話しやすい人だった。

沈黙が流れても、気まずくない。

それが不思議だった。

「楽器やってるの?」

彼女が聞く。

「ギター、少しだけ」

「へえ、すごい」

「全然だよ」

そう言いながら、ケースを少し持ち上げた。

「見てもいい?」

「うん」

ケースを開く。

中に入っているのは、少し古いアコースティックギター。

「弾いてもいい?」

彼女がそう言う。

「え、ここで?」

「うん。少しだけ」

少し迷ったけど、ギターを取り出した。

軽く弦を鳴らす。

ポロン、と優しい音が鳴る。

春の空気に溶けていく。

適当にコードをつなげて、

短いメロディを弾いた。

それだけだった。

でも。

「……優しい音だね」

彼女が、小さく言った。

その言葉が、やけに胸に残った。

「なんか、春って感じ」

少し笑っている。

「そうかな」

「うん。落ち着く音」

そう言って、僕の方を見る。

「名前、なんていうの?」

「神崎」

「神崎くんか」

彼女は少し考えてから、

「私は白石」

そう言って、軽く手を振った。

「白石美桜」

春の風が、静かに吹いた。

桜の花びらが、二人の間に落ちる。

「よろしくね、神崎くん」

その時は、まだ知らなかった。

この出会いが、

一年半後の春に、

一番悲しい思い出になるなんて。

でも、あの時の僕は。

ただ、

「よろしく、白石」

そう言って、少しだけ笑った。

春は、まだ始まったばかりだった。