古い作品では 古事記の須佐之男命 など、一度悪の側に染まったかのようで、実は違います、という流れの作品は、読み手が再生を一緒に経験する貴重なものなので、子供から大人まで楽しめると思うmiku です。

 

南総里見八犬伝 水滸伝 なども近い作品で、世直しとは、正義を振るう側ではなく、悪を知る者が悪を捌くというのがお約束で、そういう意味では、南町奉行所の金さん とか スケさんカクさん連れた水戸黄門も似た流れで、世間には受け入れ易い と考えます。 勿論、実在人物を使って脚色したのは周知の通りですけれど。 あとは、清水次郎長 とか?

 

もともと人の心理は性善説でも性悪説でもなく、どちらにも転ぶ曖昧な基準を持つものなので、だから、純粋と言われるモノに憧れを抱きます。 ただ、純粋にも罠があり、幼い子供のままに知りたい欲が強すぎて、大人になっても変わらずにいると、相手の利益まで無視する事が起きるため、一緒にいると疲れてしまいます。 成長は相手の利益も考慮した気持ちを育めるように、視点を広く持てるような機会をいつでも私たちが用意できていないと、子供はいつまでも子供から先に進めないです。 

 

視点を広めるには無限の方法があり、どれもが最適解になり得ますから、私は相性で選ぶことにしています。

 

刺激や誘惑に弱いだろうと自分自身を見ているので、極力そのような話や場所には行かず、その手の人達とも接触を避けます。 清濁併せ呑むには、この国のサイズを超えた情報や情念の渦が見え隠れするので、むしろ離れている方が安静にいられるのは多分私だけではない気がします。 勿論、国の将来を決めるような総裁選には須く収まる人に担って欲しいとは思うのですが、すでに子供のような遊戯を見ているようで、そんなにもその人を総裁に選びたくないのか、永田町は・・・と残念になります。 党員たちと掛け離れた選挙でも民主主義なのでしょうねぇ・・・

 

小説であれば、ダンテの神曲でもあるように、最低最悪の世界を見てから最高最善の世界を再認識した後に何故権力者達は善を忘れてしまうのか と一考するのですが、それが人間の弱さですから、寿命が誰にもあるように、愚かな事を続ければ自壊するのも時間の問題かもしれません。 現実の闇を知りつつも現在の最適解を導き出すには、自力では到底不可能なのが現世ですから、協力者が必要で、でも組織が大きくなると人格が生まれて防衛本能が働くのもやむを得ないです。 それが組織ですから。 

 

主人公が悪を知るために闇に染まり、その後に善に変わるのは子供の成長を体験するかのように子を持たない若い人達が読むには良いと思います。 失敗や成功は小説で幾度と繰り返し、または生まれ変わるのは あり です。 それでも、現実は小説の通りにはなりません。 堕天も無いし、善転も無いです。 よくいう言葉に 知らなかった という免罪符があります。 わざと でなければ、その人の認識できなかった部分が闇または光であって、その強さが世間での標準(許容範囲)に収まるか否かで放置または罰せられるか しかないと私は考えます。 

 

白隠禅師の逸話にもあるように、気持ちが人を支配してるだけなので、釈迦牟尼がスジャータの供養する牛乳を飲んで体を作り悟ったように、達磨太子が壁を見つめて、これでは悟れないと心底納得して解脱したように、一休禅師が夜明けのカラスの声に心のドアが開かれたように、意識(世間の基準)が個人を支配するのではなく、こちらが意識を支配する側であり、その意識から離れる事が可能であると認識できない限りは、まだ暫くは混沌とした時代は続くのかもしれません。  

 

人生泣き笑いする私は案外この混沌が好きなので、心穏やかなあちら側にいると自負する人達とも交わることはこれからもないですけれど🖤