【金門島の戦い】1958年8月23日中国人民解放軍が,台湾国民党の支配下にある金門島に砲撃を加えたことに始る事件。この戦いの立案実行者は、【根本博陸軍中将】彼が台湾を救った
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1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦が決まっても、根本は本国からの命令に背いて武装解除しないことを決断。
国境線を越えて攻めてきた大軍のソ連軍との戦闘は8月19日から3日間続いた。根本の目的はただ一つ、ソ連軍の侵攻を食い止め、
時間を稼いでいる間に4万人の居留民を安全に引き上げさせることだった。
かつて戦火を交えた国民党軍から密使が根本のもとへ
邦人を無事、張家口から脱出させ、日本に帰国させた根本には、さらに任務が待っていた。中国の東北部に展開していた日本の
兵隊を復員させることだった。根本は国民党側との直接交渉によって、35万人の将兵の帰国の約束を取り付けた。
日中戦争の間、蒋介石率いる国民党の軍隊と戦火を交えてきた日本軍だが、一方で、両方の軍には互いに通じ合えるパイプも
存在した。蒋介石は日本への留学経験がある。また、日本の陸軍士官学校に在籍した国民党軍の将校もいた。
国民党が日本の将兵を帰国させることに応じたのは理由がある。毛沢東率いる共産党の軍隊、さらにはその後ろ盾の、ソ連軍の
存在があった。日本軍を一刻も早く中国大陸から帰国させ、共産党との戦いに注力したいという政治的思惑があったのは確かだ。
すべての兵隊の復員を見届け、根本が最後の帰還船に乗ったのは、1946(昭和21)年8月だった。軍人としての根本博の人生は、ここで終わったかにみえた。
しかし、思いがけない形で、軍人・根本博がよみがえる。日本に戻って2年余りが経ったある日、見知らぬ男が根本に接触してきた。
男は、国民党の密使。根本に対し、台湾に渡り、蒋介石率いる国民党の軍隊を支援するよう懇願したという。蒋介石やその
周辺は根本の性格、さらに作戦立案・指揮能力を知っていたのだ。
このころの東アジアの情勢だが、朝鮮半島は南北で二分され、朝鮮戦争の前夜だった。また、日本の敗戦によって、台湾の主権者
は日本から中華民国(=国民党政府)になった。一方で、中国大陸では蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党の内戦が続いていた。
やがて形勢は共産党に傾き、追い詰められた国民党は台湾に逃れていた。
根本は台湾へ向かう決意をした。
金門島の台湾支配は根本の功績
1949年6月、密使の訪問を受けた根本は、家族にも本当のことを話さないまま、宮崎県延岡の港から小さな船に乗って台湾に
渡り蒋介石と再会、劣勢の国民党軍への支援を約束した。張家口から逃れた邦人らの帰国に協力した、国民党軍への恩を
返すためにほかならなかった。
蒋介石の求めに応じ、根本は国民党軍の軍事顧問として、台湾の対岸にある中国福建省へ渡った。国民党と共産党の内戦は、
毛沢東の共産党軍の勝利で終わろうとしていた。台湾に攻め入ろうとする共産党の軍隊に福建省を奪われれば、台湾までも
共産党の手に落ちることが目に見えていたからだ。
根本が目を付けたのが、金門島だ。金門島は、台湾本島から180キロもあるが、中国本土からはわずか2キロしか離れていない。
私も取材で何度か、金門島に行ったことがある。中国大陸側の街は目の前。向こう岸のビル群が手に取るように見える。
根本が立てた作戦は①敵の軍隊の金門島上陸を容認する=おびき寄せる②日没後、敵の部隊が上陸に使った船をすべて焼き払う。
これで敵は補給用、また退く際に使う船がなくなる③そして、上陸した敵の部隊を包囲し、奇襲する――というものだった。
作戦は成功に終わる。毛沢東は台湾奪取、台湾を含めた統一を断念せざるを得なくなった。(以下略)
https://rkb.jp/article/82309/
【金門島の戦い】1958年8月23日中国人民解放軍が,台湾国民党の支配下にある金門島に砲撃を加えたことに始る事件。この戦いの立案実行者は、【根本博陸軍中将】彼が台湾を救った (open2ch.net)
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金門島の戦い/根本博中将金門島の戦い/根本博中将 - ねずさんのひとりごと
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