771年以降の 「東海道15ヵ国」
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宝亀2年(771)の 東山道から東海道への 所属変更によって
武蔵国と 都(中央)との距離が 大幅に短縮された
東海道は都(遷都地)からいくつかの国府を経由して常陸国府へ向かうルートが本線
また 本線から離れた国府へ向かうために 途中で分岐する支線がいくつかあった
さらに 常陸国府から先は 東山道へ合流するための接続路があった
「延喜式」駅路概念図 (吉川 古代の道路事情)
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結果 東北エリアと
東国(坂東諸国) さらには 都(中央)との
アクセスが 大幅に改善されることになる
古代の行政区分 (山川 日本史図録)
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ところで
これから話を進めていく
「古東海道ルート」の お手本となったであろう
[ヤマトタケル伝承]の 興味深い解説が
ネット上で目に留まったので まずはここからスタートしていこう
日本書紀でのヤマトタケル東征ルート想定図 (笠倉出版社 日本書紀)
日本平の「ヤマトタケル像」 (2016/9撮影)
東国平定の際に 駿河の豪族に騙さ れて野焼き攻めに会ったヤマトタケルが 難を脱した後に
騙し討ちにしてきた豪族を 逆に焼滅した後に(これが焼津の由来)
日本平の上から ヤマトタケルが勝鬨を上げて 四方に睨みを効かせたという
この伝説から 「ヤマト平」と呼ばれて 後に「日本平」へと変化したとか
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*** 以下の [ヤマトタケル伝承の読み解き] に共感 ***
● 【大和の勇者たち(抜粋)】 千葉県長柄町史より
『このヤマトタケルは、もともと大和地方の勇者を意味するのであるが、御名を伝えようとして設置したと伝える。
タケルベは東は常陸から、南は薩摩に至る地域の軍事上の要地にあり一種の軍団であり、朝廷から各地方鎮撫の為に置かれたらしく、ヤマトタケルの西討東征の物語は、このタケルベの地方征略の史実が反映し、
多くの遠征軍が四世紀から五世紀ごろにかけて、各地で長い間に経験した数多くの出来ごとが、一人の英雄のすぐれた業績として、まとめあげられたのではなかろうかといわれており、
現在の形にまとめあげられた時期は、六世紀後半ともされている。
そして更にもう一つ、全体を通観してもっと古代の事実に近い面もあることが明らかになった。
例えば相模と上総の間の航路や、東京湾から太平洋岸への陸路の道順などである。
即ち神代の香取・鹿島をはじめ、天津彦根命(馬来由・須恵の国造の祖)・天穂日命や、神武時代の天富命、崇神時代四道将軍の一人武渟川別命の東国派遣であり、豊城入彦命の上下毛陸奥征圧・武内宿禰の東北巡察などがある。
すなわちこの伝説地や、ミコトの通られたと伝える道筋は現実の一人の足跡ではなく、東方に進出した大和朝廷の勢力拡張の進展のあとと、考えなければならないのだが、この長柄にもミコトの東征にまつわる古い伝承が残っている。
ヤマト王権の地方進出状況 (笠倉出版社 日本書紀)
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ということで
武蔵国周辺の官道・[古東海道ルート]を
ここから 見ていくことに
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まず 本来の古東海道は
相模国の三浦半島(走水あたり)から 船で安房に渡り
上総国・下総国を経て 常陸国に至るのが道筋であった
*(この正規ルートでは 当然 上総➡下総 の順)
武蔵国周辺の駅路推定図
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しかし この時期
すでに 相模国府から武蔵国府を経て
現在の荒川・江戸川河口部を横断して
下総国府に達する道が 開けていたという
関東地域の古代交通路線図(坂本太郎博士)
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このような現状(効率)を勘案した結果
相模国から 武蔵国・下総国・上総国へと続く
輸送力増強&スピードアップを重視した
新ルートへと 官道変更がなされていった
(この新ルートでは 下総➡上総 の上・下逆順に)
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すなわち 都(中央)は
東国への メイン官道を 内陸ルート(東山道)から
実利にかなった水運利用の 湾岸ルート(東海道)へと
宝亀2年(771)を境に 変容させていったのである
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このタイミングでの この官道変容は
蝦夷対応に苦戦中の 東北出先エリアとの
命令伝達や報告などの 迅速性と
更には 水運を活用した物資・兵員などの
大量輸送・大量移送の実現など
軍事力パワーアップの必要性からでもあった
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都(中央)の 日本列島統一(東北全域支配)への
強い気概&焦りを感じさせる
注目すべき 「理にかなった官道変容」だった
都(中央)の東北への進出概念図 (笠倉出版社 日本書紀)
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さて
古東海道の終点は 「常陸国・国府は現石岡市」
古代の常陸国は
海進が戻りつつも? この時期は 水の国だった
御覧の通り 国府跡がある石岡市まで 水運が可能であった
律令時代の常総エリア
(常総市/デジタルミュージアム:「石下町史」)
大量移送・大量輸送という舟運メリットが
古代の常陸国が持つ 地理的存在であった
ゆえに
常陸国は 都(中央)にとって 重要な「蝦夷征討の前線基地」
武蔵国・上野国に代わる 「兵站基地・前進拠点」 となっていった
古代・坂東8ヵ国を結ぶ 平安時代の予想航路
(平安時代末期の東国常陸の国 今よりは大きな霞ヶ浦)
特に奈良〜平安初期の蝦夷征討(阿倍比羅夫・坂上田村麻呂など)の時代には
東国の兵が多く動員されており、常陸国もその一翼を担った
常陸国は、古代律令国家にとって東北へ向かうルートの入口
東山道・東海道の分岐点に近く、軍の移動や物資輸送に便利だった
蝦夷征討の東国拠点が ルート変更のメリット(効率化)を生かし
おそらくは 上野国界隈から 常陸国へと動かした作戦であろう
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一方 771年以降をみると
この時期は 抵抗する蝦夷の鎮圧が
大きな政治的課題となっていた
(世界の歴史まっぷ)
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ルート変更からほどなく
都(中央)による 蝦夷征討が激化する時代となる
特に 771年から3年後の
宝亀5年(774)から弘仁2年(811)までを
東北 「三十八年戦争」とも呼び
御存じ 征夷大将軍・坂上田村麻呂 の登場となる
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飛鳥時代から平安時代にかけての
「ヤマト王権・古代律令国家とエミシ・蝦夷」 の古代史は
日本列島統一政策の 象徴的な出来事であり
チョイ齧り程度では 語りつくせない
戦いの長さ&内容の一部を 認識するにとどまった
以下 まとめられた「理由」に納得し 転載する
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1:政治的理由 /日本列島の統一
中央集権国家(律令国家)を目指す日本は、東北に住む蝦夷を天皇に服属させることを国家目標としていた。
2:経済的理由 /経済を潤すエリア・東北
749年に東北(陸奥国)から金鉱脈が見つかったという知らせが入る。
大仏造立の為の金が採掘できる上に経済を潤す土壌が東北にはあると考えられた。
さらに鉄資源に関しても、東北には大いにその可能性があった。
越谷市デジタルアーカイブスの 《蝦夷征討》
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●【附】:参考/// 指定文化財〈史跡〉黄金山産金遺跡
遺跡は涌谷町北部の狭隘な谷間にある延喜式内社黄金山神社一帯に所在する。
奈良時代、東大寺の盧舎那大仏造営にあたって、仏身に塗る金が不足し憂慮していた時、陸奥守百済王敬福が黄金900両(13.5kg)を献じ、その金を用いて天平21年(749)大仏は完成したとされる。
これを喜んだ聖武天皇は、年号を天平感宝と改めるなど、国家的慶事として種々の施策を発表した。また、大伴家持もこのことを祝う歌を詠じている。
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一方 今回は
古代官道の「ルート変更メリット」を探るため
ぐだぐだ 綴ってきたところ
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どうやら 古代の東国官道が 日本国創世への
隠れたサポーターの主役を 担っていたのではないかと…
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改めて 古代史への思いをめぐらした 今回であった
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附けたり~ 附けたり~
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*** 気になる [東国神宮]を チョイ夢想する ***
(2014/6撮影)
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古代官道をチョイ齧りして 古東海道を
ザクっと見て 行きついた先が「常陸国」であった
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常陸国といえば まず思い浮かぶのが
『東国三社(鹿島神宮・息栖神社・香取神宮)巡り』
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縁(墓参)あって この霞ヶ浦界隈には チョイ馴染みはあるが
古代史初齧りのシニア筆者にとって
「鹿島神宮・香取神宮」は 知ってるようで
現在時点は *謎? *なぞ? *ミステリアス? となった…
鹿島神宮 (2014/6撮影) 香取神宮(2002/8撮影)
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考えてみれば
奈良・京都から遠く離れた まさしく東国の地に
立派な神宮が二座
古代より どのような歴史を綴ってきたのであろうか?
ある時期のメインタスクは チョイ齧りからでも見えてくる
立地が重要だった 「蝦夷征討」への貢献度が大といったところ
加えて
古代東国の 常総・房総エリアゆえ
祭祀など覇権争いの 政治的な結果であろうかと…
&
史料&考古学などが 古代史のデータベース
ここから
史実の推量は広がり見えてくる
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が
今回 チョイ夢想に 考えが及んだのは
「ヤマトタケルの神話・伝承」から なるほどと感じ取った
『神話や伝承・伝説の世界は=史実と大きく関わりあり』
との スタディアップデートが 新たな好奇心を生み出した
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「多胡碑」で見かけた 藤原不比等の名
その藤原一族は この常総・房総エリアでも
東国古代史上 祭祀・政治の覇権争いの勝者となっていた
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ゆえの 藤原氏シナリオ(東国版)における
神宮物語(チョイ齧り版)を 夢想する
浅学シニアに ご勘弁あれ
*** 今回知った 好奇心神社から 両神宮をチョイ夢想 ***
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❖ 《鹿島神宮にリンクしている》 好奇心神社-① ❖
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● 大生神社 (おおじんじゃ/おおうじんじゃ) 茨城県潮来市大生814
❖「鹿島の本宮」や「元鹿島」と称される
❖主に社伝や古文書に記された神の遷座(移動)の歴史、および鹿島神宮との間で長年行われてきた特殊な祭祀関係
❖ご祭神に注目
大生神社フォト:潮来市HPより転載
(大生エリアには 縁あって訪ねた記憶あり、だが大生神社には参詣していなかった)
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❖《香取神宮にリンクしている》 好奇心神社-② ❖
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● 側高神社 (そばだか じんじゃ) 千葉県香取市大倉1
❖香取神宮の第一摂社
❖社伝によれば、側高神社の創建は神武天皇18年(紀元前643)に遡り、香取神宮と同時期に建てられた
❖ご祭神に注目
側高神社フォト:千葉県HPより転載
(側高神社も参詣していない筆者)
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鹿島~拝殿 (2014/6撮影) 香取~拝殿 (2014/6撮影)
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