「仕切る人」
と
「操る人」
には
「大きな違い」
が
ある ・・・
「仕切る人」
に
「仕切られている人」
には ・・・
「じぶん」
は
「仕切られている ・・・」
という
「自覚 が ある」
けれど ・・・
「操る人」
に
「操られている人」
には ・・・
「じぶん」
が
「操られている ・・・」
という
「自覚 は ない」 ・・・
だから ・・・
当然
「操る人」
の方が
「仕切る人」
より
「社会的」
には
「有利な面 が 多い」
だろう ・・・
そこで
なによりも
「注 意」
すべきこと
は ・・・
「仕切る人」
が
「じぶん」
は
「操る人」
だと
「勘違い」
してしまう
こと ・・・
もし
「そんな」
「勘違い」
を
してしまうと ・・・
「そんな人」
には
「だ れ」
も
「付いていかなくなる」
だろう ・・・
「仕切る人」
には
「仕切る人」
にしか
「つくれない もの」
が
ある ・・・
決して
「操る人」
の
方が
「仕切る人」
よりも
「すぐれている」
という わけでは
ない ・・・
「じぶん」
の
「本 質」
は ・・・
「仕切りたい」
のか
「仕切られたい」
のか ・・・
「操りたい」
のか
「操られたい」
のか ・・・
あるいは
「いずれ」
にも
「なりたくない」
のか ・・・
いつか
「見極められる」
ことを
望みたい ・・・