こんばんは!
会社では、年末調整事務が山場を越えて、ほっとしたところ(^_-)-☆
昨日に引き続き、今晩は、大学時代を振り返ってみたいと思います(^^♪
中学高校と、自分の思ったまま、生きていた私☺
部活に明け暮れ、進学校なのに大学受験を意識せず、な~ンにも考えてなかった私は、
母の勧めの通り、高校があった街の隣町にある「誰でも入れる」某私立大学へ入学。
英語は、塾の先生の影響もあって好きだったけれど、全く興味のない文学も学ぶ科へ。
大学へ入って、私の思考を大きく占めたのは、「母に申し訳ない!」でした。
多くの同級生が国立大学へ進む中、高校3年間下宿代も出してもらいながら、
大方の人が入れる、しかも授業料が国立の倍の私立学校へ進学してしまった!
特に、母に謝るとかはしてないと思うけれど・・・
大半は、父が私の学費や生活費を支払ってくれたのだが、
進学や勉強など、父と話したことはなかったので、意識の矛先は「母」へ!
特に、自分の気持ちが「有った」感覚や記憶はなく、
これも母の勧めだったのか、教員免許を取る過程を選択。
高校と同じような教科においては、ずっと大学の授業の方が簡単だったり。
シェークスピアなどは、ほんとにつまらなかった(^^♪
授業は真面目に出て、授業の無い空き時間は、図書館で予習復習の日々!
選択の授業では、心理学や哲学が面白そうと思って選んだものの、
予想に反してワクワクはなかった記憶。
カントやフロイトさんが登場したかな!
あまりにも理解不能だったのに、「途中で投げ出す」選択肢を持たなかった私は、
テストは、エネルギーに任せて本を丸暗記する乱暴なことも(#^^#)
自分のホントの気持ちは、どこかへさておき、こんな「母へ申し訳ない」の気持ちを
奥底にしまいながらの生活だった感覚・・・
古ーい食堂の2階が、私の下宿先でしたが、20歳の時に初めて「無気力」状態に!
2か月間で回復したけれど、辛かった・・・
道路むかえの「てんや」の公衆電話から、母に電話したっけ。
何もしたくないけど、授業に出なくて「浪人なるのは避けなければ・・・」が特にきつかった。
母から、どうしなさい!はなかったと記憶。
仕事終わってから、よく聞いてくれたんだね♡
徐々に回復はしたけれど、ただただ真面目に頑張る生活は根本にあったかも!
そんな生活の中でも、
時に、ソフトボールやサッカーを楽しみ(^^♪
夏に、実家に10人くらい海水浴に来てくれて、男女一緒に遊んだり(^^♪
やはり、お習字もしたくなって、高校の同級生のお母さん先生の所にチャリで通ったり(^^♪
「国際交流委員会」なるものに入ってた私。
全く外国の方と触れ合った記憶はないけれど・・・
阪神・淡路大震災の時に、
盛岡市の市の職員さん方と一緒に神戸へ支援活動へ出向いたりも。
祖母危篤で、何も活動できずタダ戻りでしたが。
20歳の成人式は、大抵地元に帰る人が多い中、「家は嫌」の意識と、
上記絡みの活動で、盛岡市の成人式実行委員会も経験。
何をしたかは記憶ない(^^♪
そして、今思うと「無謀な選択」は、教育実習!
教えるには、進学校の高校よりは、地元の中学の方がずっと楽なはずだったのに( ^ω^)・・・
母と父が、別々の家で暮らしてる状態の中、
「食事と風呂」と「睡眠」が、別々の家で行ったり来たりになるのが目に見えてたのもあり、
「実家は落ち着かない」思いから、高校での教育実習を選択。
よく乗り越えたものだ、私(#^^#)
そうそう!
確か、父の心配の気持ちがあり、最初は下宿生活でしたが、飛び出したい気持ち満々で!
3年になるときに、自ら探したアパートで初めての一人暮らしをスタート♡
価格と広さ、立地のみで選んだアパートは、
ボットン便所に、ドアのポストから部屋を覗かれたことも(#^^#)
もひとつ、「合わない選択」だったな~と思うのが、アルバイト!
時給のみで選んだのは、ホテルの喫茶店。しかも、すぐに宴会部へ。
履き慣れないパンプスに、ちっちゃい私に体力勝負の仕事は向かなかったよね(笑)
それでも10か月、よく続けました(^^♪
時給1500円で約2時間だったと思うけれど、家庭教師のバイトが一番合ってたかも(^^♪
4年時に受けた教員採用試験は、見事に不合格。
卒業後は半年の約束で就職浪人生活へ突入!!
お勉強自体は充実してたけれど、
楽しかった!とは言い表せない「大学生活」だったな(^^♪
市の活動を通して、初めて彼氏が出来たり・・・もありましたが、
今思うと、素敵じゃない私だったから、それは長く続ないよね♡
そんな大学生活でしたが、このコツコツ頑張った事が、
社会人初めての仕事に繋がったのでした・・・・
続く♡