25 東海道五十三次 11/12 東岡崎〜知立その一 | おっかぁブログ

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11月12日から1泊2日で、東海道五十三次を歩いて来ました。

メンバーはいつもの、ムサママさん、ちーちゃん、私の3人です。

新横浜駅で待ち合わせをし、東海道新幹線で豊橋下車、名鉄に乗り換えて東岡崎駅下車、前回(5/15-16)の続きに向かいます走る人

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旧東海道二十七曲がりの伝馬交差点で前回は終わったので、そこから再スタートです。
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この辺に東本陣、西本陣があり、岡崎宿には、本陣3、脇本陣3、旅籠が112軒もあったそうです。



この通りには、この様なオブジェが所々にありました。
紹介しきれないので二つだけ…

【人馬継立】
旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。公用旅行者は無料、半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約百五十キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。

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【御馳走屋敷】
現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壷、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重にあいさつしたという。
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二十七曲がりの道程
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岡崎信用金庫資料館
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ちょっと中も見学しました。
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一階は岡崎城下町屏風画展が開催されていて、二階はお金に関する資料館になっていました。



籠田総門跡碑
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籠田公園の中を通り抜けます。
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岡崎城の防衛の為に作られたという二十七曲がり、ややこしいので道程やこのような案内が有難い。
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だけどこれだけでは迷いそうなところもあったので、ムサママさんが準備して来てくれた拡大地図やメモ書きが頼りになりました(^_^)v






岡崎城
メモ
 岡崎城の起源は15世紀前半までさかのぼる。明大寺の地に西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城されたのがそのはじまりである。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。

 天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生した。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点(浜松城に移るまで11年間在城)に天下統一という偉業への基礎を固めた。

 元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とした。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた

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家康公産湯の井戸
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家康はここで、天文11年(1542年)に産まれ、この井戸の水を産湯に使ったという。



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復興天守  
昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守が復元。
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竹千代と家康の像が鎮座してました。




つづく…