2000年4月30日20時

目黒にある東京医療センターのアナウンスが

この日の面会終了時間がきた事を告げた。

父を見舞っていた姉と私は急かされるようにして

病室を後にしようとした時

『おかあさんは?』とふと父が尋ねた。

『何言ってんの。お母さんは今日は深谷。明日来るよ。また明日ね。』

そう言って閉めそうになったドアからもう一度父を覗き込んだ。

その時父は『そうか』と頷き納得したように見えたが

子犬がクンクンするような寂しそうな表情をした。

これが生身の父を見た最後であり。父との最後の会話になろうとは。

それから3時間余り後の23時過ぎ、病院からの電話で慌てて駆けつけた時には

人工呼吸器で一生懸命呼吸している父の姿があったが顔色は良く少年のように輝いて見え今にも起き上がってくれそうにさえ感じた。

既に死亡していたが付き添った先生が生きようとするするパワーが強く感じ取れます

と話してくれた。

 

家族全員が揃ったのが明け方の3時過ぎ、人工呼吸器装置が取り外され死亡時刻が

告げられた。5月1日午前3時40分、85歳の人生だった。

前日まで痩せこけて皺くちゃだった顔はピンと張りそこには省吾少年そのものがいた。病院から出て空を見上げると空は真っ青。

正面には父のシンボルとも言える大好きな日本一の富士山が白い帽子を被りくっきりと。雄大にそびえ父の天国への道にお迎えに来てくれたのだと思った。

あれから20年の時が流れ元気だった母も98歳で7年前に他界した。

私達子供が幼かった頃からよく喧嘩していた両親。

仲の良い夫婦だったとは思わないけど父が最後に会いたかった人は母だったのだ。

もし会えていたら何を母に言ったのだろう。

永遠の謎のまま。母は最期に会えなかったのを寂しく感じて悲しんだが

『お母さんは?』が最期の言葉だったことに救われ父亡き後

父のためにいろいろつくし夫婦思いやりを持って生きたんだと感じさせられた。