100年前から今に繋がっている

ウクライナ軍事組織

1920~1929年

 
(続き)

 

テロリズム

ポーランド第二共和国に住んでいた民族の構成図。ウクライナ人はオレンジ色

 

1921年の時点で、ポーランドの人口2700万人のうち、約3分の1はウクライナ人、ユダヤ人、ドイツ人、ベラルーシ人、それ以外の民族で構成されていた。ウクライナ人は約500万人であり、全体の15%であった[10]。ウクライナ人の多くは、オーストリア=ハンガリー帝国の領土である東ハリチナか、「東小ポーランド」(ポーランド人がこのように呼んでいた地域)に住んでいた[10]。これらのハリチナ・ウクライナ人はギリシア・カトリック教会の信者であった[10]1919年6月25日、戦勝国協商大使評議会は、「ボリシェヴィキの一団から国民を守る」ため、ハリチナの東部を占領するポーランドの権利を承認した。協商大使評議会は、ハリチナをポーランドに編入することには同意しなかったが、住民の権利の尊重とハリチナ東部における自治権の付与を条件に、ハリチナの統治権を認めた。1919年から1923年にかけて、ウクライナ人はポーランド国家の承認を拒否した。急進的なウクライナ人は、1921年の国勢調査と1922年の下院議会選挙を妨害し、ポーランド人や組織団体に対して破壊活動やテロリズムを決行した[2][10]

 

コノヴァーレツは、自分たちの現在の任務について、以下のように述べた。「ポーランドが我が祖国と講和条約を結んだ今、我々は、ポーランドとの闘争の旗を掲げざるを得ない状況にある。戦わなければ、我々は祖国のみならず、捕虜収容所においても影響力を失うことになる。捕虜収容所にいる我々の仲間たちの一人一人が、ピウスツキによる東ハリチナとヴォルィーニの占領に対する復讐の炎を燃やしている。しかし、ボリシェヴィキは依然として我々の不倶戴天の敵である。ポーランド人がそれを強要してくる限り、我々はポーランド人に立ち向かわねばならない」[3]

 

1923年3月14日、ハリチナがポーランドに併合されることが決まると、ウクライナ軍事組織は混乱状態に陥った[3]西ウクライナはポーランドにトランスカルパティア(ザカルパッチャ州)はチェコスロヴァキアにブコヴィナ地方はルーマニアの占領下に置かれた[5][17]

 

ウクライナ軍事組織は、ポーランドに対してテロリズムや妨害行為、破壊行為に訴えた。1922年の夏から秋にかけて、彼らはポーランドの地主の不動産や農場に対して2300件の放火に関与した[3]。彼らは、暴力とテロリズムについて、それ自体が目的であるとは考えていなかったが、この手段を通じて民族解放闘争を展開している、と確信していた。テロリズムの目的は、ウクライナ人に抵抗の可能性を確信させ、ウクライナ社会を「絶え間ない革命の騒乱」または「永続的な革命」の状態に保つことであった[10]。ポーランドに対するウクライナ軍事組織のテロリズムは、妨害行為(放火、電話や電信通信の損害)、組織的爆破行為財産の「収用」政治家の暗殺であった[2]。ポーランド当局は、これらのテロリズムについて、ウクライナ軍事組織だけでなく、西ウクライナ共産党ロシア語版の党員たちも非難した[3]。西ウクライナ共産党は、1938年ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)の命令で解散させられた[10]

 

これらのテロリズムに対して、ポーランドは、昨日の「友人」であるペトリューラとコノヴァーレツ、その共犯者の仕業である、と確信し、報復手段に出た。1922年末、平和主義的な抗議運動の最中、ポーランド警察は、これに参加したウクライナ人・約二万人を拘束した。ポーランドがウクライナに対して実行した組織的且つ絶え間ない逮捕により、ウクライナ軍事組織は機能不全状態に陥った。組織の諜報部隊はかろうじて生き残った[3]

1922年10月14日スィディル・アントーノヴィチ・トウェルドフリブウクライナ語版が、ウクライナ軍事組織の過激派の手で撃たれた。トウェルドフリブはこの翌日に死亡した[18]

 

1921年9月25日ステパン・フェダクウクライナ語版[3]ユゼフ・ピウスツキの暗殺を試みるも、未遂に終わった[1]。この暗殺を監督したのはイェヴヘーン・コノヴァーレツであった[5]。1921年9月25日、ピウスツキはリヴィウに到着した。この日の午後9時、ピウスツキとカジミェシュ・グラボウスキーが車に乗り込んだとき、群衆の中に紛れ込んでいたステパン・フェダクが二発の銃弾を発砲した。リヴィウ郡知事のカジミェシュ・グラボフスキポーランド語版が被弾し、負傷した。銃弾はグラボウスキーに命中したが、ピウスツキには当たらず、無傷であった[19]。ウクライナ軍事組織によれば、グラボフスキとピウスツキは、1920年4月22日にペトリューラと締結した協定に違反したのだ、という(ポーランドとソ連の戦争開始前夜の1920年4月22日の夜、ポーランドにて秘密協定が結ばれた[1])。このテロリズムを受けて、ポーランド当局はウクライナ軍事組織に対して宣戦布告した。組織は本部をベルリンに移さなければならなくなり[1]、コノヴァーレツもポーランドを出国した[2]1924年9月5日スタニスワフ・ヴォイチェホフスキポーランド語版が暗殺されかけるが、これは失敗に終わった。1926年10月19日には、リヴィウ学区の教育長、スタニスワフ・ソビンスキポーランド語版が射殺された[9]

 

ポーランド当局は、ウクライナ人の利益を無視してハリチナを自国の領土に編入した。しかし、国際世論を考慮する形で、ポーランドは「ウクライナ人やその他の少数民族の権利を尊重する用意がある」と宣言し、この義務は憲法によって正式に保証された。1923年、ポーランド政府がこの地域に自治権を与え、行政機関においてウクライナ語を導入し、ウクライナ人のための大学を開設する趣旨を再度確約すると、協商大使評議会は、ハリチナ東部に対するポーランドの主権を認めた[10][9]。ハリチナがポーランドに併合されることが決まると、ウクライナ軍事組織は混乱状態に陥った[3]

 

1923年の夏、コノヴァーレツはハリチナの組織の幹部をプラハに集めて会議を開き、国際情勢について報告した。コノヴァーレツによれば、ベルリンに滞在中、独立国家ウクライナの樹立を目指す民族主義者を支援するため、ドイツ政府の関係者およびドイツ陸軍参謀本部と協定を結んだという。ドイツ軍の将軍によれば、ヴェルサイユ条約の重荷を下ろすため、来たるべき戦争の準備をしており、近い将来、ソ連とポーランドに対して侵攻する計画を立てている趣旨を知らされた。コノヴァーレツは、ソ連とポーランドへの侵攻を実行する唯一の国としてドイツに重点を置く必要性について問題提起した。コノヴァーレツは、「ドイツは、ウクライナの民族主義者が敵国との戦いで積極的に協力してくれるのであれば、ウクライナの民族主義者を喜んで支援しよう、と約束してくれた」と結論付けた。ウクライナ軍事組織の全兵力をドイツ軍の司令部とドイツの諜報機関に委ねることを約束し、その指導のもと、ウクライナ民族主義者の地下組織の活動が実行されることになった[3]諜報員、テロリスト、破壊工作員を育成するため、ウクライナの民族主義者を訓練するための特別な制度が導入された。1923年、ミュンヘンにて、アブヴェーアの諜報講座が導入された。1928年には、ドイツの諜報機関に有利な破壊活動に従事するウクライナ民族主義者を訓練するための本部がグダニスクに創設された[3]。1923年の初冬にダンツィヒで開かれたウクライナ軍事組織の会議で、委員会をベルリンに、地域支部をリヴィウに一時的に設置することが決まった。同時に、ウクライナ軍事組織と西ウクライナ人民共和国の前指導部との繋がりは止まった。

ハリチナがポーランドに併合される話が決まると、西ウクライナ人民共和国政府は、その国際的地位を失った。 西ウクライナ人民共和国の指導者、イェヴヘーン・オメリャーノヴィチ・ペトルーシェヴィチは、ソ連邦ウクライナ共和国からの資金援助を頼りに、ポーランドとの戦争を継続したいと考えていた[12][16]。ソ連当局はペトルーシェヴィチに対して援助を約束したが、ペトルーシェヴィチがソ連に従属すること、コノヴァーレツを組織の指導部から外すことを条件とした。これはウクライナ軍事組織の内部危機に繋がり、その危機は2年に亘って続いた。最終的に、ペトルーシェヴィチの支持者であったウクライナ・ハリチナ軍ウクライナ語版の元将校は、ウクライナ軍事組織から追放された。1926年5月14日オスィップ・オレクスィーヨヴィチ・ドゥミンウクライナ語版らが「西ウクライナ人民革命組織ウクライナ語版」を結成した。ウクライナ国家の独立を目指す目的で結成されたが、1929年に活動を停止した。

 

1923年以降、ウクライナ軍事組織とリトアニアの間で協力関係が確立されるようになる。協力関係の構築の仕掛け人は、1920年から1921年にかけてリトアニアの外務大臣を務めたユオザス・プリツキス英語版であった。リトアニアとポーランドは1926年まで戦争状態にあり、1938年になってから外交関係が確立された。リトアニアの政治家は、ウクライナ軍事組織と協力すれば、ヴィリニュス地方英語版の自国への復帰が早まるだろう、と信じていた。リトアニア政府が出した公式声明の中で、彼らは西ウクライナの独立を繰り返し強調した。リトアニアは、ロシア帝国からの独立を宣言したのち、ヴィリニュス地方は自国の領土である趣旨を主張した。これに対し、ポーランドは、ポーランド語話者の住民の自決権を主張した。その後、戦間期を通じて、ヴィリニュス地方における主権はポーランドとリトアニアの間における領土問題として争われた(→ヴィリニュス問題ロシア語版)。

 

1925年以来、カウナスにはウクライナ軍事組織の常駐施設があり、「Левника」(「レヴニカ」)との暗号名を使っていた。リトアニアでは、民族主義雑誌『スルマ』や、反ポーランド、反ソ連の内容を含む小冊子が発行された。ウクライナ軍事組織の過激派は、リトアニアが発行した文書を隠して活動し(コノヴァーレツもリトアニアの旅券を持っていた)、ポーランド軍に関する情報をリトアニア軍の司令部に提供した。1925年、ダンツィヒにいたコノヴァーレツの仲間は、ポーランド海軍の配備に関する情報をリトアニアに提供し、リトアニアがドイツから購入した潜水艦二隻のリトアニアへの輸送を手伝った。1926年、リトアニア軍は、ウクライナ軍事組織からポーランドとリトアニアの国境に軍隊を配備する情報を受け取った。この情報により、ポーランドがリトアニアに軍事侵攻する計画が明らかになった。同時に、コノヴァーレツはイギリスとドイツにポーランドの腹積もりについて伝え、軍事衝突は回避された。リトアニアにおけるコノヴァーレツの代理人はオスィップ・レビュークウクライナ語版であった。彼はリトアニアの外務省と連絡を取り続け、リトアニア当局とウクライナ軍事組織の仲介人としての役割を果たした。彼はリトアニア政府から3ヵ月毎に約2000ドルを受け取った[12]

 

1924年から1925年にかけて、ウクライナ軍事組織の地域委員会は、「ポーランドの財産の収用」を強化した。「収用」を実行するにあたり、ユリアン・ミコライヨヴィチ・ホロヴィンスキーウクライナ語版は「飛行旅団ウクライナ語版」を創設し、郵便馬車、郵便局、銀行を攻撃し始めた。1925年4月28日、リヴィウにある郵便局が襲撃され、当時としては巨額の10万ズウォティが過激派の手に渡った。ポーランド警察が「飛行旅団」の取り締まりに成功したのは、1925年末のことであった[2]1928年11月1日西ウクライナ人民共和国創設10周年を記念する集会の群衆に紛れて、ウクライナ軍事組織の過激派が警察に発砲し、騒ぎが起こった。11月1日から11月2日の夜にかけて、ポーランドにある記念碑「リヴィウの擁護者」の近くで爆弾が爆発した。1928年12月、ウクライナ軍事組織は、ポーランドの新聞『スロボ・ポルスケ』の編集局で爆弾テロを組織した。彼らは1929年の春に開催された展覧会「タルヒ・フスホードニ」(Тарги Всходне)でも爆弾を起爆させた[19]