100年前から今に繋がっている

ウクライナ軍事組織

1920~1929年 (本文の最後は1959年であるが、今も形を変えて続いている)

 

 

(続き)

 

民族主義組織

ウクライナ民族主義者組織の紋章
イェヴヘーン・コノヴァーレツ

 

1922年ウクライナ民族青年団ウクライナ語版が結成された。1925年11月、チェコスロヴァキアで開かれた会議にて、ウクライナ民族主義者組織連盟ウクライナ語版の結成が発表された。ミコラ・オレストヴィチ・スチボルスキーウクライナ語版がこの結成に関わった。他に、ウクライナ民族主義青年同盟ウクライナ語版ウクライナ民族同盟ウクライナ語版、「ウクライナ解放朋友同盟」(Об’єднання друзів звільнення України)も結成された[3]

 

コノヴァーレツは1928年にカナダを訪問し、ウクライナ軍事組織の支部が設立された[4]。コノヴァーレツは、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、リトアニア、アメリカ、カナダにいる組織の代表者とも連絡を取り合った[4]

 

コノヴァーレツはアンドレイ・シェプティツキーウクライナ語版に宛てた手紙の中で、「ドイツの友人たちは、ウクライナ民族主義者組織が謀略的なテロ組織である限り、ウクライナの大義のための広範な政治的行動について考えるのは無意味である、と教えてくれている。テロリズムは目的ではなく、あくまで手段でなければならない。成功すれば大衆の服従を促せるが、失敗すればそれもままならなくなる。大衆は政治の主体ではなく、あらゆる手段で屈従させねばならぬ対象であり、屈従した大衆は手中に収められ、自らの政治目的のために利用されなければならない」「ドイツほど、この問題の解決に関心を持っている国はなく、ドイツを除いて、この問題を解決できる国家はない」「ウクライナ問題全体の解決のために戦っている我が組織は、ドイツ側の政治的要因と調和して行動し、ドイツの政策を模倣する必要がある」と書き残している[20]

 

イェヴヘーン・コノヴァーレツとその仲間たちの目的は、外国に亡命中のウクライナ人の民族主義勢力を団結させ、共通の敵であるソ連と戦うことにあった。1929年1月28日から2月3日にかけて、第一回ウクライナ民族主義者国際会議がオーストリアで開催され、コノヴァーレツがこの組織の議長に選出された[1][3]。ウクライナ人の民族主義者による共同統一組織が結成され、「ウクライナ軍事組織」は「ウクライナ民族主義者組織」(Організація Українських Націоналістів)に合併された。独立組織であったウクライナ軍事組織は、名目上は自律的な軍事関連機関であり、ウクライナ民族主義者組織の一部門として再編成される形となった[2]。1929年、ウクライナ民族主義者組織は、ウクライナの国内外に存在する民族主義組織とウクライナ軍事組織とを統合し、ウクライナを占領する外国に対する地下闘争を開始した[6]1929年に発刊されたウクライナ軍事組織の小冊子には「テロリズム自衛手段であるだけでなく、扇動の一形態でもあり、望むか否かに関係なく、敵味方の双方に等しく影響を与えるだろう」と記述されている[7]

 

ウクライナ民族主義者組織による会議では、「活動について、特定の領土のみに限定するのではなく、ウクライナの全地域およびウクライナ人が住む土地を占領するよう努める。『ウクライナ国家の主権政策』を追求し、ウクライナの全政党および階級集団に反対する」と宣言された[3]。軍事政策の分野においては、ウクライナ民族主義者組織は「権利のために、粘り強く精力的に戦う準備ができている武装した人民による軍事力こそが、ウクライナを侵略者から解放し、ウクライナ国家の樹立を可能にできるのだ」と考えていた[3]

 

1929年以降、ウクライナ民族主義者組織は、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアにて、ドイツの諜報機関と協力し、活動していた。アドルフ・ヒトラーがドイツの宰相に就任し、権力を掌握すると、ドイツの諜報機関との協力関係はさらに強化された[1]1930年代初頭、コノヴァーレツはヒトラーと二度対面している。一度目は1931年[4]、二度目は1932年9月であり[1]、いずれもヒトラーが権力を掌握する前のことであった。ヒトラーは、コノヴァーレツの仲間に対し、ライプツィヒにあるナチス党訓練所で講座を受講してはどうか、と勧めた[1]1931年にコノヴァーレツがヒトラーと会談した際、ウクライナ民族主義者組織の活動について、ヒトラーは「ソ連に対してのみ実行し、ポーランドに対する攻撃を止めてくれるなら、あらゆる支援を実施する」と約束した[3][4]

 

ステパン・バンデーラ

 

1932年11月30日、ウクライナ民族主義者組織の一部の構成員が、ホロドクポーランド語版英語版 (当時はポーランド領グルデク・ヤギェロンスキ) にある郵便局にて強盗事件ポーランド語版を起こした。この強盗事件では、襲撃犯二名を含めて、計四名が犠牲となった。地域委員会の指導者、ボフダン=イワン・コールデュクウクライナ語版はこの事件の責任を取る形で役職を解任された。ステパン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラ(Степан Андрійович Бандера)がウクライナ民族主義者組織の指導者に就任すると、彼らの軍事行動の性質は変化した。「収用」は止まり、ポーランド政府の要人、地元の共産主義者、左翼および親ソ連派の人物、ソ連の外交官に対する懲罰の意味を込めた行動とテロリズム攻撃に重点が置かれるようになった。バンデーラは、「『収用』は労力の無駄遣いであり、ポーランド警察は強盗行為を非難することにより、ウクライナ民族主義者組織の信用を毀損する機会を与えてしまっている」という事実を考慮し、収用行為の放棄を決定した[21]

 

1933年10月21日、リヴィウのソ連総領事館で働いていた書記官(その正体はソ連の諜報員であった)、アンドレイ・マイロフロシア語版が、ウクライナ民族主義者組織の構成員の一人、ミコラ・セメノヴィチ・レミックウクライナ語版の手で暗殺されたウクライナ語版。レミックはマイロフに二発の銃弾を浴びせて殺害した。1933年6月3日から6月6日にかけて、ウクライナ民族主義者組織の会議がベルリンで開催された。この会議で、ステパン・バンデーラが組織の地域執行部の指導者に選出されるとともに、リヴィウのソ連の外交官を暗殺する決定が下された[22]。暗殺を完了したミコラ・レミックは、無抵抗の状態でポーランド警察に逮捕された。1933年10月30日、レミックはリヴィウ地方裁判所で死刑判決を受けるも、のちに終身刑に変更された。当時のポーランドの法律では、20歳未満の者に対しては死刑を宣告できなかった。1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、それに伴って生じた混乱に乗じてレミックは脱走した。のちに彼はゲシュタポに逮捕され、1941年10月に射殺された。

ソ連の外交官の暗殺の動機となったのは、1932年から1933年にかけて、ウクライナ全土を襲った大規模な飢餓「ホロドモール」(Голодомор)に対し、世界が関心を示さなかったことが大きい[22]。アンドレイ・マイロフ暗殺事件は、この飢餓に対する象徴的な報復行為として注目され、ソ連とポーランドの間の緊張状態の高まりに繋がった[23]。ステパン・バンデーラは「ボリシェヴィズムは、ウクライナ国家を破壊し、ウクライナ国民を奴隷化する制度であり、ウクライナ民族主義者組織はボリシェヴィズムと戦っているのだ」と語った[22]

 

1934年1月26日ドイツとポーランドは条約を結んだ。この条約の締結後、ウクライナ民族主義者組織に対するドイツの支援は縮小された。コノヴァーレツはリトアニアの諜報機関との関係を強化することにした。リトアニア当局は、ウクライナ民族主義者組織に虚偽の書類(旅券や許可証)を提供した[1]1936年の諜報情報によれば、コノヴァーレツはルーマニアが占領していたブコヴィナ(Bukovina)に、反ソ連の破壊活動の拠点を設置しようとしたという。戦争が起こった場合、ウクライナ民族主義者組織は、ヨーロッパ諸国、ソ連、ポーランドにて、ウクライナ国民に蜂起を促す手筈であったという[1]。ドイツとポーランドによる条約締結後、アプヴェーアはウクライナ民族主義者組織による反ポーランド活動を抑制し、その矛先を「ボリシェヴィズムに対して」向けるよう促した[24]1933年12月の時点で、コノヴァーレツはステパン・バンデーラに対し、「反ポーランド活動を止めるように」との指令を出していた。

 

1934年6月15日午後3時40分、ポーランドの内務大臣、ブロニスワフ・ピェラツキポーランド語版が銃で撃たれて殺された。ピェラツキ殺害の実行犯は、ウクライナ民族主義者組織の会員の一人、フルィホーリイ・マツェイコウクライナ語版であった[25]。ポーランドはハリチナを併合し、同化・統合するつもりであった。「ハリチナ」の名前は「東小ポーランド」に変更された[25]。ステパン・バンデーラは、ブロニスワフ・ピェラツキの暗殺も主導した[26]1935年11月8日に始まった裁判では「ステパン・バンデーラはウクライナ民族主義者組織の地域指導者として、ピェラツキ大臣を殺すよう指令を下し、その暗殺計画全体を指揮した」ことが明らかになった[25]。ブロニスワフ・ピェラツキの暗殺は、1933年4月末にベルリンで開催された特別会議の場で決定された[27]。ステパン・バンデーラはポーランドの法廷で死刑を宣告されたが、のちに終身刑に減刑された。1939年、ポーランドに侵攻し、占領したドイツ軍により、バンデーラは刑務所から釈放された[3]。ピエラツキーの暗殺は、ポーランドに、テロリストの政治亡命の禁止を含めたテロ行為に対する国際制裁を導入する提案を国際連盟で演説する理由を与えることになった。コノヴァーレツはポーランドにおけるテロ攻撃を禁止しようとしたが、すでに逮捕されたバンデーラの命令はしばらく機能し続けた。

 

1930年代、ウクライナ民族主義者組織は、60件を超える暗殺を組織した[10]ウクライナ民族主義者組織の構成員の中には、民族間の融和を主張するポーランド人やウクライナ人に対しても牙を剥く者がおり、民族同士の融和や妥協を主張したポーランドの政治家や一般のウクライナ人が、ウクライナ軍事組織の構成員の手で殺された1931年8月にはタデウシュ・ホウフコポーランド語版が、1934年7月にはイワン・バビイウクライナ語版[3]が殺された[10]。ポーランド当局はウクライナ人のテロリストたちを処刑した[10]

 

ウクライナにおける急進主義の台頭の原因については、ポーランドによるウクライナ人に対する差別、ソ連邦においてウクライナ人が辿った悲劇的な運命、合法的な闘争手段、身勝手な利益のためにウクライナ人を無視し、自らも危機に陥った「西側の民主主義国」に対する失望、これらすべての要因が重なり、急進的なウクライナ人は外部からの助けを待つのではなく、状況を打開するために過激な手段を採用するに至った[10]

 

アンドレイ・マイロフの暗殺事件を受けて、国家統合政治総局ロシア語版の議長、ヴャチェスラーフ・ルドルフォヴィチ・メンジンスキー(Вячеслав Рудольфович Менжинский)は、ウクライナ民族主義者の指導者を無力化する措置を命じた[5]

 

その後

1938年5月23日、イェヴヘーン・コノヴァーレツは、内務人民委員部の秘密諜報員、パーヴェル・アナトーリエヴィチ・スドプラートフ(Павел Анатольевич Судоплатов)の手で暗殺された。スドプラートフは、ウクライナ民族主義者組織の一員を装い、ヨーロッパのさまざまな都市でウクライナ民族主義者組織の代表者と会った。スドプラートフは、コノヴァーレツとの信頼関係を徐々に築いていった。スドプラートフは「ウクライナ民族主義者組織の司令官を無力する」との任務を受けており、コノヴァーレツの殺害を実行に移した。スドプラートフは、チョコレートに目がないコノヴァーレツに、チョコレートが入った箱に偽装した爆弾を手渡した。この30分後、ロッテルダムの中心街で爆弾が起爆し、コノヴァーレツの身体は吹き飛んだ[28]

コノヴァーレツが殺されたのち、ウクライナ民族主義者組織の指導部は、「新たな戦いに備えよ」「クレムリンを恐れるな」と鼓舞したうえで、以下のような声明を発表した。

我々は今、諸君に次のことを訴えたい。我々の元を永久に去った偉大な男の指揮下で戦う名誉の持ち主であるという事実にふさわしい存在であれ。彼の意志を、その生き様と血によって神聖化されたものとするのだ。勝利に終わるか、破滅するか。これが諸君の心に刻まれる規範となるであろう!血に輝く伝統を脈々と引き継ぐのだ。指導者は墓の向こう側から、目的の高潔さと神聖さを守ってくれているのだ!彼の声が墓から聞こえてくる:この戦いが勝利となり、勝利が復讐とならんことを!我らが指導者、イェヴヘーン・コノヴァーレツに栄光あれ!主権ある統一国家ウクライナ万歳!ウクライナ民族革命万歳!ウクライナ民族主義者組織万歳![29]

1938年10月、アンドリイ・メルヌィクがウクライナ民族主義者組織の議長に就任した。

1940年2月、ウクライナ民族主義者組織は、メルヌィク派バンデーラ派分裂した[5][17]

1958年5月25日、ステパン・バンデーラはコノヴァーレツの墓の前で演説を行い、「ウクライナは、その地政学的な位置ゆえに、独自の軍隊と生存競争によってのみ、国家の独立を獲得し、維持できるのです」「解放闘争はまだ終わっていません」「敵は我々の指導者を殺害することにより、この運動を停めるだけでなく、完全に破壊できると考えた。しかしながら、ボリシェヴィキは、指導者は殺せても、ウクライナ民族主義者組織を解体し、その闘争を止めることには失敗した。その活力と強さの源は大衆であり、そこから民族解放闘争とその活動的要因が絶え間なく更新され、強化され続けるのです」と述べた[30]

1959年10月15日、ステパン・バンデーラは、КГБの諜報員、ボグダン・ニコラーエヴィチ・メンジンスキー(Богдан Николаевич Сташинский)の手で暗殺された[31]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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