100年前から今に繋がっている

 

ウクライナ軍事組織

1920~1929年 (本文の最後は1959年であるが、今も形を変えて続いている) 

 

 

(続き)

組織

1920年8月3日に創設・結成されたウクライナ軍事組織は、イェヴヘーン・コノヴァーレツが運営委員会を統率し、1922年にはベルリンに組織を移転した。彼らの活動は、ポーランドの政府要人に対するテロリズム、将来の民族解放革命の利益のための妨害活動、偵察、破壊活動、国民国家・ウクライナの復活に向けたプロパガンダ、民族の融和であった[5]

組織においては、人事部、諜報部、戦闘部、宣伝政治部が創設された。ウクライナ人民共和国陸軍の「ソートニク」(Сотник, 「百人隊長」)、オスィップ・オレクスィーヨヴィチ・ドゥミンウクライナ語版は諜報部門に就いていた[12]1923年以降はユリアン・ミコライヨヴィチ・ホロヴィンスキーウクライナ語版が、1930年以降はリハルド・ヤリーウクライナ語版が就いた[9]

ウクライナ軍事組織の構成員たちは、組織の司令官と厳格な軍事規則に従った。1922年の終わりまでに、ハリチナに13の支部が設立され、これらは郡や地方の下部組織に分けられた[3]

 

コノヴァーレツがベルリンに向かったのち、アンドリイ・アタナソヴィチ・メルヌィクウクライナ語版がウクライナ軍事組織の支部を統率することになった。メルヌィクは、リヴィウにおけるギリシア・カトリック教区の大司教であったアンドレイ・シェプティツキーウクライナ語版と良好な関係を築いた[13]

 

1923年1月中旬、会議のため、プラハに集まったウクライナ軍事組織の5つの下部組織の代表者は、「ウクライナ軍事同盟」(Український Військовий Союз)の創設を発表し、外国に亡命中のウクライナ人の兵士を団結させるために努力する単一の国家組織である趣旨を宣言した。1926年11月、ウクライナ人民共和国軍の元兵士たちによる組織連合が結成された。ドイツ、フランス、ポーランド、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ひいてはアメリカとカナダでも同様の組織が設立された[3]

活動

この組織団体は、本質的には軍事組織であり、反ポーランドの蜂起に向けて、退役軍人やチェコスロヴァキアで抑留されたウクライナ人民共和国と西ウクライナ人民共和国の軍人の秘密訓練をハリチナにて実施し、ポーランド国家の不安定化を目的としたテロリズムにも関与した。ウクライナ軍事組織は西ウクライナの政党から資金援助を受け、亡命中のウクライナ人民共和国および西ウクライナ人民共和国政府との関係を維持した。1923年、協商大使評議会が東ハリチナに対するポーランドの主権を認めると、ウクライナ軍事組織の構成員の多くは組織から脱退した。これにより、この組織は財政的基盤を失い、新たな資金源を探すことを余儀なくされた[10]。ウクライナ軍事組織の支部が設立された西側諸国(ポーランドとチェコスロヴァキア)における階級における矛盾の悪化も、反社会主義勢力と反共主義勢力の強化に繋がった。目標と目的の統一により、ウクライナ民族主義者と多くの国々の資本主義政党や政府との協力が促進され、広範な財政支援を受ける機会を得られた。緊急の「勧告」と高等教育機関からの資金援助を受けて、リヴィウでは月刊雑誌『文学科学紀要ウクライナ語版』の発行が再開された。ドミートロ・イワーノヴィチ・ドンツォフウクライナ語版が同誌の編集長に任命され、コノヴァーレツ自身も編集委員の一人になった[3]。この2年後、ウクライナ軍事組織からの資金援助を受けて、新聞『Наш час』(『我々の時代』)がリヴィウで創刊された。

 

1921年7月、リヴィウに到着したコノヴァーレツは、ウクライナ軍事組織の機関を組織した。コノヴァーレツはペトリューラの命令とポーランド当局からの承認を得て、ソ連邦ウクライナ共和国の領土への侵攻に向けて軍隊の準備を始めた[3]。コノヴァーレツがリヴィウに到着するまでに、セメン・ペトリューラ率いるウクライナ人民共和国の亡命政府は、「ボリシェヴィキに対する全国的な蜂起」を組織する目的で、ソ連邦ウクライナ共和国の領土に侵攻する準備を進めていた[3]。「反乱軍本部」はユーリイ・ヨスィポヴィチ・テュテョニクウクライナ語版が率いていた。コノヴァーレツはテュテョニクに対し、人的資源やロマン・キリロヴィチ・スシュコウクライナ語版が率いるウクライナ軍事組織の偵察部門がすでに入手可能であったソ連の領土の状況に関する諜報情報の提供を申し出た。「反乱軍本部」は二つの部隊を形成し、そのうちの1つは、ミハイロ・ダニロヴィチ・スィドレンスキーウクライナ語版による指揮のもと、880名を数え、10月27日から28日の夜にかけてズブルフ川を渡り、テルノーピリの北からソ連邦ウクライナ共和国の領土に侵入した。ヴォロディミル・アナニーヨヴィチ・ヤンチェンコウクライナ語版の指揮下にある990人を擁する第二部隊はリウネ方面から侵攻した[3]。ポーランドとフランスは、ペトリューラとテュテョニクに対して「反乱が成功した暁には正規軍をウクライナに派遣する用意がある」と保証した[3]。しかし、この蜂起はソ連軍に鎮圧された[3]

 

ソ連は、1921年3月にウクライナとポーランドの間で締結された平和条約の条項を引き合いに出しつつ、ポーランドに強く抗議した。ポーランド当局は、セメン・ペトリューラによるソ連邦ウクライナ共和国に対する敵対的な活動への支援を拒否した[3]。その後まもなく、ペトリューラはポーランドを離れ、パリに移住した。1926年5月、ペトリューラはサムイル・イサーコヴィチ・シュワルツボルトロシア語版に射殺された。ペトリューラは、内戦中のウクライナに住んでいたユダヤ人に対する虐殺について責任を負っていた[14]。パリの陪審は、シュワルツボルトに無罪判決を下した[3][1]

 

歴史家のオレスト・ミロスラーヴォヴィチ・スブテルヌイウクライナ語版は、「コノヴァーレツは、とくにポーランドにとっての敵国であるドイツとリトアニアとの接触を確立し、金銭および政治的支援を求めた」と書いた[15]1922年の春、コノヴァーレツはベルリンに向かい、ドイツの防諜機関である「アプヴェーア」(Abwehr)のフリードリッヒ・ゲンプドイツ語版と会談した。コノヴァーレツは「ウクライナ軍事組織が諜報活動で収集した情報について、ドイツの諜報機関に全て教える」との契約を書面で交わした。これと引き換えに、アプヴェーアはウクライナ軍事組織に対し、毎月9000ライヒスマルク(Reichsmark)を報酬として送った[3]。アプヴェーアからの要請に伴い、ウクライナ軍事組織は活動の拠点をウクライナの西部に移した。

 

アンドレイ・シェプティツキーはコノヴァーレツに対し、ドイツに細心の注意を払いつつ、ドイツとの接触を求めるよう助言した[12]。アプヴェーアとの連絡の確立に貢献したリハルド・ヤリーは局長補佐官となった[12]。ウクライナ社会および「西側の民主主義諸国」からの支持を失っていたことで、コノヴァーレツはヴェルサイユ体制を変えようとしていた西ヨーロッパ唯一の国にしてポーランドの敵国でもあったドイツに支援を求めることにした。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hilter)が権力を掌握する前の話であった[10]。1922年、コノヴァーレツはドイツからの援助を受けることを決定した。当時のドイツは、ハリチナにて、軍事諜報活動、破壊活動、妨害行為を行っていたウクライナ軍事組織との接触に対して興味を持っていた[1]

 

1925年の時点で、ウクライナ軍事組織の諜報活動の拠点はダンツィヒにあった。ドイツの秘密警察はコノヴァーレツに対し、バルカン半島、小協商(1921年、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ルーマニアの間で結ばれた同盟)、スイス、ポーランド、バルト三国の秘密警察に所属するウクライナ軍事組織の構成員の数を拡大させるように、との指示を出した[10]1928年、ウクライナ軍事組織とドイツの諜報機関との関係を示す証拠を入手したポーランド当局の抗議により、ウクライナ軍事組織に対する資金提供は数年間停止されることになった[16]1922年から1928年にかけて、ウクライナ軍事組織は200万マルク以上のお金を受け取った[12]

 

オレスト・ミロスラーヴォヴィチ・スブテルヌイによれば、ウクライナ軍事組織組織の会員数について「約2000人はいた」という。また、「ウクライナの東部と西部、双方のウクライナ亡命政府と繋がっており、西ウクライナの政党から秘密裏に資金援助を受けていた」という[3]