ウクライナの西部の町、リボフ(リヴォフ)(現リビウ)に行った事がある(昔)。

ハプスブルク帝国の一部だったヨーロッパ的な美しい町。

ハプスブルクより前の400年間はポーランド。

 

 

第2次大戦後、

ドイツのナチは滅びたようだが、

リボフ付近に残党がいた。

バンデラと追従者達である。

 

それらがネオナチという証拠として

ヴォルイニ虐殺などがあった。

 

 

 

ヴォルイニの地名はヴォルィーニヴォリン(ウクライナ語)とも表記される

 

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”ヴォルィニ虐殺”で検索を掛けたら

Wikiの”ヴィーンヌィツャ大虐殺→ソ連共産党のテロの1つという” が一番上に出てきた。

日本語で情報が取りにくくしてある。

 

 

Wiki や 地図から 見てみる

 

英語版↓Wikiで日本語版はない

ドイツ占領下のポーランドで、1943年から1945年にかけて、ウクライナ反乱軍(UPA)が地元ウクライナ人の一部の支援を受けて、ヴォルィーニ、ガリシア東部、ポーランドの一部、ルブリン地域で少数民族のポーランド人に対して実施された。 支配層のドイツ人もウクライナ人とポーランド人の両者に互いに殺し合うよう積極的に奨励した。

 

虐殺のピークは 1943 年 7 月と 8 月に起こりました。これらの殺害は非常に残忍で、主に女性と子供が標的でした。 UPA の行動により、最大 100,000 人が死亡した。 虐殺の他の犠牲者には、ポーランド人の家族の一員かUPAに反対し、ポーランド人逃亡者を匿って虐殺を妨害した数百人のアルメニア人、ユダヤ人、ロシア人、チェコ人、グルジア人、ウクライナ人が含まれていた。

 

民族浄化は、戦前ポーランド国家の一部であったウクライナ人が多数を占める地域に対する戦後ポーランド国家の主権主張を阻止するためのウクライナの試みであった。 ウクライナ民族主義者組織(OUN-B)のバンデライト派がウクライナ人であるとみなした地域からポーランド国民を強制的に退去させるという決定は、1942年秋の軍事指示者の会議で行われ、その清算が計画されていた。ポーランド人コミュニティの指導者と抵抗する人々。 ヴォルィーニの地元UPA司令官はドイツ人に対する武装蜂起に参加し、ポーランド国民への攻撃を開始し、多くの村で虐殺を行った。 抵抗に遭い、ヴォルィーニのUPA司令官ドミトロ・クリャチキフスキー「クリム・サヴール」は1943年6月に「ポーランド全国民の一般的な物理的清算」を命じた。 攻撃の最大の波は1943年7月と8月に起こり、ヴォルィーニでの攻撃は1944年の春まで続き、そのとき赤軍がヴォルィーニに到着し、それまで自衛を組織していたポーランド地下組織が第27AK歩兵師団を結成した。 ヴォルィーニでの虐殺の結果、約5万人から6万人のポーランド人が死亡し、ポーランドの報復行為により最大2,000人から3,000人のウクライナ人が死亡した。

 

1943年8月の第3回OUN会議で、ミコラ・レベドはヴォルィーニでのウクライナ反乱軍の行動を「山賊」と批判した。 しかし、大多数の代表者が彼の評価に反対し、議会は反ポーランド行動をガリシアでも実施することを決定した。 しかし、それは別の方向に進みました。 1943年末までに、それはポーランド人コミュニティの指導者を殺害することと、差し迫った大量虐殺の脅威にさらされてポーランド人に西へ逃げるよう勧めることに限定されていた。 1944年3月、ローマン・シュチェヴィチが指揮するUPA司令部は、最初に警告によって、次に村を襲撃し、男性を殺害し、建物を放火するという方法でポーランド人を東ガリシアから追い出す命令を出した。 同様の命令が東ガリシアのUPA司令官ヴァシル・シドール「シェレスト」によっても発令された。 この命令はしばしば従われず、村全体が虐殺された。 1943年から1946年にかけて東ガリシアではOUN-BとUPAが20,000人から25,000人のポーランド人を殺害した。 1,000人から2,000人のウクライナ人がポーランドの地下組織によって殺害された。

 

ウクライナの一部の宗教当局、団体、指導者はポーランド民間人の殺害に抗議したが、大きな成果は得られなかった。 2008年、ポーランド議会はポーランド人に対するUPAの犯罪を「大量虐殺の特徴を持つ犯罪」と定義する決議を採択した。 2013年には「大量虐殺の特徴を伴う民族浄化」と称する決議を可決した。 2016年7月22日、セイムは7月11日を、ウクライナ民族主義者が第二ポーランド共和国国民に対して犯した虐殺の犠牲者を追悼する全国の日として制定した。 この分類にはウクライナと一部の非ポーランド人の歴史家が異議を唱えており、彼らはこれを民族浄化として特徴づけている。

(英語版の概要のみ Google翻訳)

 

Googleマップ↓この地域

英語版↓ヴォルイニ悲劇の歴史学

Polish people murdered by OUN-UPA and other Ukrainian nationalists in 1939–1948: documented numbers and approximations
 Voivodeships     Recorded number of settlements where the murders took place Documented number of Poles massacred (a round number)[21] Number of Polish victims known by their names Estimated victims above numbers already established[22] Approximated number of murdered Poles (a round number)[21]+[22]
Wołyń  1,865 ~ 38,600 22,113 21,400[21] ~ 60,000
Lwów   1,007 ~ 15,400 6,397 9,395[22] ~ 24,800
Stanisławów  422 ~ 11,700 3,843 6,700[23] ~ 18,400
Tarnopol  850 ~ 23,000 10,143 4,585[24] ~ 27,600
Total 4,144 ~ 88,700 42,496 42,080 ~ 130,800

英語版↓キシェリンの虐殺

キシェリンの虐殺は、ウクライナのヴォリン州にあるヴォルィニアン村キシェリン(1939年まで第二次ポーランド共和国)、現在のキシリンで起きたポーランド人教徒の虐殺である。 それは1943年7月11日日曜日、地元のウクライナ農民の支援を受けたウクライナ反乱軍(UPA)の部隊が、地元のローマ・カトリック教会での式典に集まったポーランド人たちを包囲した際に起きた。 およそ60人から90人以上の男性、女性、子供が服を脱ぐよう命じられ、その後機関銃で虐殺されました。 負傷者は斧やナイフなどの武器で殺害された。 生き残った人々(一説によると約200人)は中会に逃げ込み、11時間立てこもった 。

キシェリンの虐殺は、第二次世界大戦中の1943年から1944年にかけてヴォルィーニで行われたウクライナのOUN-UPAによるポーランド人虐殺の一環であった。(英語版の概要のみ Google翻訳)

 

Googleマップ↓この教会の写真が悲劇の舞台のよう

 

 

 

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検索で出てきたニュース

 

 

2023年5月のニュース

 

2016年7月↓

ポーランド下院(sejm)、第二次大戦時、ウクライナの準軍事組織UPA(ウクライナ蜂起軍)により行われた、

主にポーランド系住民に対するヴォルイニ虐殺のジェノサイド認定、7月11日の記念日認定法案を承認。

 

2023年10月↓

 

 

 

 

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日本では特に知られていないため、

日本語で書かれた物はあまり見つからず、

機械翻訳らしい翻訳物が多い

 

以下 翻訳された日本語版

 

https://ja.topwar.ru/229777-zamglavy-mid-polshi-bez-reshenija-voprosa-ob-jeksgumacii-tel-zhertv-sobytij-na-volyni-ukraine-nechego-i-dumat-o-vstuplenii-v-es.html

ポーランド外務副大臣「ヴォリン事件の犠牲者の遺体掘り起こし問題を解決しない限り、ウクライナはEU加盟を考える理由はない」

 

ここは閲覧注意↓写真多数

https://elmin.ru/ja/bani-world/ostorozhno-shokiruyushchee-foto-volynskaya-reznya-istoricheskaya.html

 

 

https://ja.ww2facts.net/36781-volyn-massacre.html

↑下に生存者の証言がある

 

 

 

 

 

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検索エンジンの ”DuckDuckGo” 

 で試しに検索してみると、関連の高い結果が多く出てきた。

 キーワード: ”ヴォルィーニの虐殺”

 結果:” ヴィスワ作戦 ”と ”ウクライナ蜂起軍 ” が1ページめに記載

 

Wikiの記事ですら隠されていたのは驚き。

Wiki内での検索にも、”ウクライナ蜂起軍” の記述は上の方には出てこなかったので、上の2つは見つけていなかった。

 

 

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まずWiki から・・・

 

新たにWiki内で見つけた ↓  下に部分引用

第二次世界大戦後の1947年ポーランド南東部のウクライナ系住民(ボイコ人、レムコ人を含む[1])を強制移住させた、ポーランドの共産主義政権による政策のコードネーム。その目的は、ポーランド国内で展開されていたウクライナ蜂起軍 (UPA) などによる抵抗運動を壊滅させることにあった。・・・

(長いのでリンク先へ行って読んでください。見出し「後年における評価」にも記述あり)

 

 

新たにWiki内で見つけた ↓  下に部分引用

ウクライナ蜂起軍(ウクライナほうきぐん、ウクライナ語: Українська повстанська армія, УПА英語: Ukrainian Insurgent Army、UPA)は、ウクライナにかつて存在した反体制武装組織。独ソ戦最中の1942年10月に結成され、おもに西ウクライナにおいて、赤軍ドイツ軍の双方に対するパルチザンレジスタンス活動を行い、第二次世界大戦終結後はソ連と戦った。

現在のウクライナにおいてはウクライナ国家独立のために戦った英雄として名誉回復されているが、ソ連とその後継国家であるロシア及びポーランドにおいては、「ナチス協力者英語版」「戦争犯罪組織」と扱われている。

蜂起軍によって虐殺されたポーランド人住民の慰霊碑

戦争犯罪

ウクライナ蜂起軍の評価を大きく分ける原因となっているのが、ヴォルィーニとガリツィアでUPAが行ったポーランド人民族浄化ポーランド語版ホロコーストへの関与である。

戦前のヴォルィーニとガリツィアを含む西ウクライナ地域は現地に住むポーランド人の存在からポーランド領となっていたが、UPAは戦後にポーランド国家が復活した場合同様にポーランドの領土となることを警戒していた[4]。1943年からUPAはヴォルィーニとガリツィアに住むポーランド人に対する民族浄化を開始した。UPA部隊はポーランド人村落を次々と襲撃しては虐殺・略奪を繰り返し、1945年にソ連軍が周辺を制圧するまでの間に約5万人から10万人のポーランド人が殺害された[5]。この虐殺は戦後にポーランド政府がヴィスワ作戦を実行する理由ともなった。

また、UPAにはウクライナ補助警察時代にアインザッツグルッペンゲルマンSS英語版の指揮下でユダヤ人虐殺に加担した者も多数参加していたほか、UPAの前身であるOUNは1941年にリヴィウでユダヤ人に対するポグロムを行った組織でもある。

ウクライナにおける名誉回復

ウクライナ蜂起軍は、ソ連や後継のロシア連邦の歴史認識では「ナチス協力者」「戦争犯罪者」と扱われている[6]。ウクライナは1991年ソビエト連邦の崩壊によって独立を果たしたが、しばらくはソ連時代の歴史認識の影響が強いままだった[6]

2014年マイダン革命により親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚し、反露派のペトロ・ポロシェンコが大統領に就任した。ボロシェンコ政権(2014年 - 2019年)は、旧ソ連の「残滓」を取り除く政策を数多く行った[7]。そのため、ウクライナ政府の公式史観は大きく転換され[8]、ウクライナ蜂起軍も名誉回復がなされた[6]。ウクライナの祝日「祖国防衛者の日」は、2014年から、ウクライナ蜂起軍の創設日である10月14日に移動した[6][注釈 1]

 

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記述はこれだけだし、十分”西側”視線で内容は甘いけれど、大体の流れはこれ↑で分かる。

 

今ウクライナで英雄としてあがめられているネオナチ軍 ( 後(割と最近)にウクライナ軍に組み込まれたアゾフ大隊などのネオナチ軍) は、残虐行為も厭わない ウクライナ蜂起軍(UPA) だった。(そのアゾフ大隊を日本の公安のHPでネオナチとして注意喚起していたのを削除したのは2022年だった。・・・分かり易い。

 

義母は南ウクライナ出身だが、その父は第二次大戦時の独ソ戦で諜報・偵察隊だった。戦死したと思われていたが、終戦後3年位経ってから ひょっこり帰宅して驚かれたそうだ。実はUPAを追っていたため帰れなかった(傷だらけで銃弾を頭にも受けて残っていたため晩年はボケてしまった)。ソ連軍はナチ・ドイツ軍を倒すと共に、国内のナチ軍UPAも、消滅に追い込もうとしていた。がUPAは残り、現ウクライナでは英雄になっている。

 
 
 
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”ヴィスワ作戦”Wiki内リンク先 ”ポーランド人の大虐殺” ↓

 

 

 

 

 

 

 

 

~文字数制限いっぱいなので、ここでいったん終える~