19世紀、世界で一番裕福だったのは、ロシアのロマノフ家だったそうだ。
当時ヨーロッパからロシアに移住してくる人は絶えなかった。
今でもドイツ系?のような姓がたくさん残っているのは、その頃からの名残だ。
(ロシアの庶民は、というと、例えばまだ農奴の制度が続いていたし、裕福と言える暮らしが出来ない人も多かっただろうけど。)
それを面白く思っていなかったのは大英帝国だろう。
アングロサクソン…
彼らは中世以後、スペインに勝って後、しばらく世界でも1番の強者だった。
だが、後からのし上がってきた農民上がりのロシアに追い越されてしまった。
(トルストイが言ってた、ロシア人は皆農民だったって)
しかもロシアには広い土地がある。
階級意識の高いプライドが許さない。
と考える人がいるかもしれない。
ー ー ー ー
アングロサクソンを検索
↑ここに出てくるWASP
ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント[1][2]の略称(アクロニム)で、白人のアメリカ人プロテスタント、かつイギリス系の上流階級を指す。WASPエリート集団は、アメリカ合衆国の歴史の大部分において米国の社会・文化および政治を支配し、婚姻・相続及び縁故主義を通じて諸分野を寡占した。富裕層としてのWASPの社会的影響力は1940年代以降減少したが、この集団は以後も一部の金融および慈善分野と政治を支配している[3]。
2018年現在、アメリカ合衆国では全人口の22.5%が福音派であり、カトリック(23.0%)や特定の宗教を信仰しない人たち(23.1%)と同じぐらいの割合である[51][52]。
民族というより、宗教かもしれないとも思う…
ー ー ー ー
第2次世界戦時、英露で合同軍事訓練をしていた。
YouTubeで2,3年前に第2次世界戦当時の映像を見たが、今見つけられなかった。
(見つけたらここに追加する)
ー ー ー ー
が、英は裏切ろうとしていた…
想像を絶する作戦
1945年5月22日付けでイギリス軍が作成したソビエト連邦との戦争計画。アンシンカブル作戦とも呼ばれる[1]。実行に移されてはいない。イギリス政府にとって初めての本格的なソ連との戦争計画であり、イギリス軍とアメリカ軍の連合軍がヨーロッパ東北部を主戦場としてソ連軍と対決するという内容だった[2]。
ー ー ー
(私見)
イギリスは、傷だらけでボロボロになった 一応 味方だったソ連に、裏切りでとどめを刺そうとしていた。火事場泥棒以下の卑劣な考えだ。実際に行動に移さなかったとはいえ、その後警戒を怠らなかった理由が分かるだろう。
(ロシアの立場で考えて)
だが、先人が命がけで守った祖国をソ連最後のトップであったゴルバチョフは(稚拙にも)西側を信じて、自分から差し出してしまった。結果、ソ連は解体した。彼がロシアで評価が低い理由だ。
そして今(2014年から)またロシアを解体させるべく西側諸国が暴挙に出ている。ロシアでは、世界からスポーツを排除されたり等、嫌がらせを受けている事を理解していた。それまでプーチン批判をしていた(一般の)人までプーチンを支持し、現在ロシアを守るために結束している。
ー ー ー
この頃(1945年)、独ソ戦に勝ったにしろ、既に多くの犠牲を払っていたソ連軍。
イギリスは連合軍として第2次世界戦に参加し、強いドイツをソ連軍により弱体化させて、弱ったソ連をイギリスが潰そうとしていた。
そしてロシアをバラバラにし、小さな沢山の国し、英米で支配する。すると扱いやすくなる。お互いを戦わせれば、反発されにくい。) → 今もそれを狙っている。
もしかすると、(これは私の妄想)…
イギリスがしたかったのは、ドイツを潰し、ソ連を潰すために、ドイツにナチ政権を誕生させたんじゃないか、とすら疑いたくなる。 (誰が?は、この下にも書いた輩)
ー ー ー ー
とにかく、英米が汚いやり方を考えていたと思える。
ここからは陰謀論的だが、英米も乗っ取られているのではないか。
裏の政府とか、 DSか、エリート達か、グローバリストか、ネオコンか、共産主義者か、シオニストか、レプティリアンか、カバルか、ハザルか、イルミナティか、知らないけど、そう呼ばれている輩に操られているんじゃないかと思ってしまう。
ー ー ー ー
ー ー ー ー
Wiki資料
ソビエト連邦(ソ連)が保有していた軍隊である。通常は略してソビエト連邦軍またはソ連軍と呼ばれる。
1946年2月 - 1992年5月
1918年1月から1946年2月までロシア帝国およびソビエト連邦に存在した軍隊。ソビエト連邦軍の前身に当たる。十月革命後に勃発したロシア内戦の最中である1918年1月に労働者・農民赤軍として設立され、1937年12月にソ連海軍が赤軍から独立した後は、ソ連地上軍(陸軍)を指す呼称となった[1][2]。
1946年から1991年にかけてソビエト連邦軍の主力である陸軍につけられた名称。以前は「赤軍」として知られていた。
大祖国戦争
第二次世界大戦のうち、ソビエト連邦がナチス・ドイツおよびその同盟国と戦った1941年6月22日から1945年5月9日までの戦いを指す。旧ソ連諸国の外では、この用語は一般的に使われることはなく、東部戦線(Eastern Front)、独ソ戦などの用語が使われている。
第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。
ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた[1]。
1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した[2] 。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。
開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり、歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアによる圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど、自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また、反共産主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラヴ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。
この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人である。民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど、極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している(第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働)。また、ドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した(ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働)。
開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となった。1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がドイツの首都ベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。