2日間、発熱していて、一昼夜半寝ていたら夜中に眠れなかったので考えていた…

 

趣味や思い出とは別に分けて、2アカ目を作り、「真実か ”論”」を考えて備忘録ともし、自分なりに見極めようと思う。

 

ここは自分の感覚と、印象考えを書くスペースにする。

記憶はいつか全て失われるから、ある程度書き留めておこう。

 

 

ここには自分が考えた上で感じたこと納得した事、などを書いていきたい。

TV・新聞・ネットニュースは参考資料だが、プロパガンダが多い。信じるだけなら宗教と一緒。私には宗教は無理な事は自己紹介↓で説明。

まるで宗教のように信じろと言われても、脳が拒否するものは信じられない。それは学問、学校教育の中にも例外なく混ぜ込んであると思っている。そのため、各人は自分で分析するべきだと思う。他人の言葉を聞いても判断できる知識を持ったり、調べる能力を育てることは重要だと思う。

 

これからも自分の頭で考えて生きていく。

自分で分析して、資料を集め、論理的に考えて、結論を導きたい。

 

 


 

ブログの中では、

 

何パーセントで正しいと思うとか、も使いたい。

あとで自分に分かるように書き直したり、更新したりする可能性あり。興味ある人は覗いてみてください。

 

使うのは、各ニュース(あまり信用していない)、誰かのブログ、TwitterX、Wiki、地図サイト、Youtube等、外国の資料やサイト、場合によってTelegramもあるかもしれない。

 

 

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こういう価値観の人がどうやってできたかの参考に。

 

「自己紹介」

 

私は今は普通の主婦、パートのおばさん。

子供の時から好奇心旺盛でちょっと変わっていたようだ。

親も変わっていた。時代というのもあるけど…。

 

(悪いことしてないし身バレしてもいいやと最近思っているので、エピソードを交えて 人間形成に重要だった人生の前半までの自己紹介を書いた)

 

 

 

「親達やと小母達」

 

 

は台湾生まれで20代前半で引き揚げ、去年が生誕100年だった。子供のころから弱くて死ぬと思われていたから母の戸籍も14,5歳までなく小学校も行かなかったそうだ。台湾人の子守のお姉ちゃんの所へ遊びに行って泊ってその兄弟たちと遊んだり。自分の兄弟の中でも、その当時の現地の日本人とは一味違う幼少期を送った。家族は日本人街には住まず、 亭仔脚(ていしきゃく) のある赤レンガの建物にも住んでいたと言っていた。死ななかったので籍に入り、後に女学校へは行った。戦時中は総督府に勤めていて、和文タイプを打っていた(1980年台に私は都内の郵便局にアルバイトで入ったことがあるが、そこには和文タイプライターがまだあった。チラシを作るのに打たせてもらったことがある。母がしていた仕事はこれなんだ!と思いながら打ったが、漢字は文字数が多いので1文字探すのが大変だった)。

台湾総督府は、空襲を受けた。母の友達は皆亡くなった。母は駆けつけ、バラバラの焼け焦げ遺体を見せる訳にはいかないとの配慮で切り取った服の端を次々に見せられて誰の服かを答えたそうだ。

その爆撃の日、母が仕事へ向かおうとすると、父親が「今日は行くな」と言った。仕事が溜まっているのでどうしても行かなきゃならない、って反論したので、最初で最後だが殴られたそうだ。母は「不思議なのよね、分かってたのかしら」とよく言ってたけど。今では祖父がスパイだったんじゃないかと疑っている。そう考えると辻褄が合う事がいくつかあるからだ。

母の父は博多のお寺出身、母の母は長崎出身だそう。母の母の母つまり曾祖母は一人っ子で、当時植民地だった大陸に一人で渡った。(父の田舎へ法事で行った時、集まった酒飲みのおっさんの1人に”からゆきさんだったのかいな” と聞かれたらしく、母は大泣きしてその後2度と行かなくなったのは、私が小学生の時。)

 

 

は中部地方の山間部出身、今でも親戚がいるが、遠くてあまり行くことはない。自然が一杯で空気がきれいな所。自給自足が出来る人なら最高だろう。末っ子に生まれ3歳で不慮の事故で父を亡くす。記憶は玄関の所で合羽を着て立っていた姿だけだとのこと。

祖母はその後長男が継ぐまで苦労して家を守り、数え88歳迄生きた。祖父母4人の中で私の記憶にある唯一の人。亡くなったのは私が18歳頃。お葬式へ駆けつけると、桶の形の棺桶に座った状態で入れられていた。1980年代だけど地区の墓地で家族の手で火葬された。墓地の一角の階段を登った台の上に置いて焼き始め、いったん戻って家で待機、翌日、下に落ちたお骨を集まった親戚が拾う。夜中に雨が降り始めて心配したが、無事に翌朝皆で拾い集め、用意していた空き瓶に詰め、生前から用意されていた赤文字(生きている人の墓は赤文字)のお墓の下の隙間に入れて石でふさいだ(のちに黒色で塗り替え)。

私は父の兄弟以外の大勢いるはずの親戚はほとんど知らない(これは母方にも言えるが、人数が多すぎるから仕方がないか)。叔父さんの1人はアルゼンチンに渡ったそうだ。

戦時中は、父の集落は空襲されることもなく、夜、川で魚を釣っていた人のそばへ落ちたというのが最大のニュース。名古屋が燃やされた時は空が真っ赤だったと言っていた。子供時代は野山や川を駆け巡って遊んだそうだ。だから頑丈な体が出来上がった。今でも医者いらずで生きている、基礎は大事。戦後14歳で田舎を出て、鉄道に入った。その面接には下駄で行ったそうだ、それしかなかったため。

鉄道員はタダで電車に乗れたので、あちこち、特に近い名古屋にはよく行った。大阪に移住、数年後東京に移住。クラシックギターを習い始めた。下請け仕事をしたり(銀座!のビルで壁にペンキを塗っている笑顔の写真がある)、血を売ったり(1回で日給程度の値段)して高い学費を捻出する苦しい生活だった。古賀政男の古賀ギター学校に通い、そのうち、その豪邸のお風呂にだって入るようになった。努力家なので先生に認められて自分も先生になる。当時の友達の柔道家と車で皇居に入場したことがあるというのは武勇伝。初期に免許を取り、タクシーの運転手もしてたから…。東京タワーの土台がにょきにょきと4本生えてきた時も走っていた。(一番苦しい時期10数年は、祖母に連絡もせず、祖母が泣いていたと後で伯母から聞いた)

 

母もギターを習っていて、「トレモロが上手な良い先生を紹介する」と言われて出会ったのが縁。父にはギターの関係かで、中野の良い家庭の女性との縁談があったかなんか(良く知らないけど)なのに、8歳上の女優似のサンドイッチにコロっと引っかかって全てを失ってしまった (料理を作るのは「早い美味い」と親戚からも定評あり) 。 …え、略奪愛…?良家のお嬢さんの方が父は絶対幸せになったと思う。(が、この母と同じようなことを、数十年後、私は夫にやらかしてしまい、彼を一生不幸に落としめることになる(略奪愛はしていない)。祟られているのか、血は争えないだけか。)

 

 

↑↓このサイトの最初の写真がちょっと母に似ている。ついでに言うと父も割とイケメンだった。私は両親からそれぞれの負の部分を多くもらったので美女にはならなかった。

 

 

 

そんなんで、今の芸能界の走りみたいなギター界から破門。

 

 

「伯母達」

 

母の下の姉はマリー・ルイズ美容専門学校の1期生で当人から直接習った1人。一緒に写った写真もあった。台湾から東京に勉強に来た。短期で人の1.5倍のスピードで勉強し習得して台湾へ帰郷。

後(1945年)に敗戦で、台湾から限られた物だけ持って内地(本土)へ引き上げ後、母と妹は美容も習い姉の手伝いをするようになった。

 

伯母には親友(女性)がいた、嫁に行かないよう管理され、生涯一緒に仲良く暮らした。

母は姉妹とつるんでいたので、その親友の小母さん含めての3人は会う機会も多く、私は子供1人でなので可愛がられ、自分も親しく思い影響も受けた。実はその小母さんも癖の強い人だったので色々あった(特に感情だけで生きる母とは折り合いが悪かった)。戦後なので燃えて残ってないのを良いことに実は経歴詐欺で国会に入ったとか(もう戦後80年近く、時効だから書いても良いよね)。後で勲章を貰ったのは、私にとっては他人だけど嬉しく誇らしかった。小母さんからは母や伯母が教えられない事を教えてもらったりもした。

 

母の妹は戦後香港で暫く暮らしていたことがあり、中国人の彼氏(妻子あり)がいた。東京では引揚者住宅に住んでいて、叔母の所へ遊びに行くと、小さかった私はそのおじさんが寝ている上に乗っかって遊んでもらおうと起こしていたのを覚えている。私の母に子に肉を沢山食べさせるようにとよく言っていたそうだ。私はお陰で丈夫だし、自分の子にも肉を沢山食べさせた。
彼は叔母と一緒に日本に来て料理の先生になり、次に妻子を呼んで帰化し、TVでレギュラー出演するほど有名になった。叔母と彼の妻子はしばらく仲良くしていた。私の父は中国はそういうのあり(一夫多妻?)らしいよと言っていた。叔母がチャンスを放棄して子供を産まなかったのは残念。

(書き忘れたので(4日後15日に)追記:叔母は戦時中、トンツーを打っていたそうだ。多分、送っていたのは”暗号”だろう。祖父がもしスパイだったとしたら、と思うと彼にはすごく役立ったんじゃないだろうか…)

 

 

「私の子供時代」

 

ひとりっ子で育ったので、1人は平気だった。

母は割と病弱だったので3歳でも1人で外で遊んでいた(この頃まで釜利谷にいた)。

その頃はまだ子供が多い時代だったし。

が石を落として爪を剥がすケガをしたのを記憶している。この時、母を呼びに行ってくれたのは4歳の子だった。

 


北関東へ引っ越し後、小2の時家に小鳥が舞い込んだのは、神様がいるなら当時最大のプレゼントだった。

団地はペット不可だが鳥はOKだ。毎日、話しかけ、何を欲しているか観察し、愛情を注ぎ、掃除し、食べ物をやって、遊んでやって、自分も幸せになる。小さくても彼はちゃんと表情や態度で愛情をくれたし、成長も見守ってくれた。車で一緒に何度も旅行したし、事故に遭って救急車に乗せられた時も一緒に病院まで運ばれた。

セキセイインコ黄事故は5年生になった時だ。田舎の法事の帰り、大渋滞の道路で疲れたトラックに追突されたのだ。優れたドライブテクニックで、父は玉突きを回避した。その瞬間ハンドルを必死に回している父を覚えている、格好良かった。母は気絶、そのあと数か月入院したが、むち打ち症は何十年も続く。私は小さくてほぼ無傷、20代迄激しい頭痛持ちだったのがその影響かは分からない。救急隊員に抱っこされて救急車に乗せられた時、私は鳥の名を叫び続けたのだけど、それを聞いて1人の隊員が鳥かごを持ってきてくれた。最高の命の恩人だ。そのまま鳥と一緒に搬送された病院では看護婦さん達の休憩室だったらしい和室を提供してくれた。数日前に会ったばかりの田舎の親戚が駆けつけて、雑魚寝が出来た。押し入れも利用した。今だったら、鳥は受け入れてくれなかっただろうと思うとその時代のおおらかさが懐かしい。

 

 

赤ちゃん私は小さい時から何故か正義感は結構強かった。

小学校の廊下で虐められっ子の肩を持ったことはある。自分が正義の味方とは思わなかったけど、黙ってられなかったし、仕返しなど考えずまくしたてることも出来た。自分に直接関係なくても理不尽なことに強い憤りを感じるタチだった。

赤ちゃんぴえん人に合わせるのは苦手だった。人と同じことするのも苦手だった。だから授業中は”針のむしろ”であった。

マイペース、自分で納得したい派だった。向上心はあるし何時間も取り組めるが、興味のないことは全く力が入らない。ある意味、今言う”発達障害児”に近かったかもしれない…

一人っ子の良い所はやりたいことを兄弟に邪魔されずにとことん追求できる事。親も相手は1人だから協力しやすい。

 

読書を始めたのは小母さんが子供用の世界の名作50冊セットの本をくれた出来事が大きい。小3位からだろうか、本が2冊ずつ届くようになった。最初は面倒だったが、自分自身の頭の中に組み立てられる空間の世界に気づいた。マンガもあまり読まなかったが、文字の本は読んだ物が自分の世界になるという事が重要だった。ただ、読書は慣れるまで努力が必要で、挿絵は頑張って読んでいる時のプレゼントだった、想像を補助してくれるので。人間の物事への思考が”言葉で”出来ているという事も分かった。


人生で「子供の時に~だけ~、あなたに訪れる~(トトロのメロディで)」スピリチュアルな話は1つだけだがある。幽体離脱的な物だ。これは体験者は多いかもしれない。小学生の私が家に1人でいて本を読んでいる。こたつに足を突っ込んで、背の高い洋服ダンスに寄っかかっている自分。それを上から見ていただけだ、それが2,3度。自分の頭や洋服ダンスの上が見えて、「両親の古い写真ここにあったのね、他にこれも上に置いてあったんだ~」と思ったのだ。その時気にもしなかった。子供なんて自分の環境が全てだから、”普段は”どうなのかなんて知らない。見えないものが見えて不思議だと気づかない。

何十年も忘れていたのを急に思い出して「もしかして、あれ幽体離脱だったの?」と思ったきっかけは、背の高い洋服ダンスの上のチョコレートが入っていたらしい洋風のカンカンの写真が、引っ越した後どこに置いたかな、と考えた事。子供の時は椅子に乗っても届かなかった、洋服ダンスの上にある画像がふと目に浮かんだからだ。

 

(小さい経験がある、と言っても、あまりスピリチュアルな事に興味は感じていない。かなり現実的な思考回路なので。陰謀論と結び付けられがちだけど、それもプロパガンダと言うんじゃ…)

 

 

 

「音楽との出会い」

 

音楽を始めたのは3歳ごろか、母がオルガンの先生の所へ連れて行った。

全く記憶にないが、それが嫌だったらしい。音楽を始めたくない印象が頭に染み付いた。

 

5歳の時、父にギターやってみる?と聞かれた。お父さん大好きっ子だったし、父はやって欲しいのだろうと思い、やると答えた。

父は練習用の楽譜を私に沢山書いた(父が破棄済み)。ピアノのハノンみたいなもの。

つまらなかったが取り敢えず、弾けるようになり、阿部保夫先生の教本を使うようになった。

簡単に誰でもギターに取り組めるようにメロディとコードをしばしば無視した単純な伴奏に編曲してある。6歳位だったけどコード無視は弾く気が萎えた。その頃から音の重なりこそが音楽の魅力と心で感じていた、メロディーを追うだけでなく。

 

父は大人になってから楽器を始めたので、子供の音楽教育は知らない。母も同様だ。

基礎が大事で、単純な繰り返しを毎日しなければならない、のが正しいのは間違いないだろうが、やってもやっても進まないのは拷問でしかない。「せっかく無理してやってあげてるのにさ」と思いながら。じゃあ次はこれをやってみよう、がない。新しい物がない(小さい)、進歩が見えない。楽しみがない。飴をやらずにムチだけで2年、美味しい物を出し渋った結果、小2頃のピークとそれを数年維持した状態で、両親の天才少女ギタリストにしたい夢は散ってしまった。(当時住んでいた田舎では、ちょっと天才だったが)

(☆教訓!子供に「やりたくなければやめればいいだろ!」と言ってはいけない!)

 

小2頃、父はピアノを買った。流行り出したから買ったのか、私にやらせたかったのか。私は絶対やらないと言った。音楽は嫌いとも言った。父が休みの日にピアノを弾くようになった。それを見ていて、ギターと曲が違うし和音も面白いし音も良いと思った。

 

出来た親友がピアノとそろばんを習っていて、私はそろばん塾の前で待ってたり、ピアノ教室に付いて行ったりした。彼女はピアノはいいけどそろばんはやめたいと言っていた。

 

私が家でピアノを弾こうとすると、母が「ちゃんと習わないと変な癖がつくから」と弾かせないようにしていた。それでも時々弾いていたけど、5年生の時、周りの習っている子はもうかなり弾けていた状況で私は1からスタートだった。楽譜はギターと同じト音記号なら読めたし。(左手の”ヘ音記号”に苦労した)

 

結局、高3まで先生の所に通い続けた。音楽の練習は自分1人での作業が多くて大変だから、親友はもしかすると止めたかったかもしれないけど、卒業まで私に付き合ってくれた。同じ先生の所に2人で通い連弾もしてくれた。楽しかったし、お陰で頑張れた。遠くに住んでいるけど彼女には感謝。

 

追記(4日後15日に):部活は中学でも音楽、高校で合唱をやっていた。みんながバラバラに歌うのではなく、皆が同じ方向を向いて1つの音楽に仕上げる事は、ギターやピアノのようなソロ楽器と違って面白かった。歌で色々な外国語と出会うことが出来たのも重要だった。

 

 

 

「宗教」

 

両親とも浄土真宗の家出身なので、今でも法事があれば(しないし呼ばれないけど)身近だ。子供の頃は伯母と般若心経を2人で並んで一緒に読んでいた為、多分今でもそらで唱えられる。

神社はいつもお寺と一緒にあったよと、父は言っている。はっきり分けられたのは明治の政策だから、田舎に古いしきたりが残りがちだから。

 

西洋の文化からキリスト教は切り分けられないので、幼少期から少しずつキリスト教には触れている。

小学校の脇で外人さんがキリスト教(プロテスタントかな)の冊子を配っていたな…今はないのかな。田舎に外人少なかったし異文化に触れる気がしてワクワクした。

 

小3位かな、伯母の家の前に新しい家が建ち、エホバの証人が引っ越してきた。すぐに感化され、ある時、伯母の家へ行くとお仏壇代わりのスペースが消えていてとても驚いた。そこにはおじいちゃんおばあちゃんがいたはずだから。

 

その後、母も引き込まれ、私も巻き込まれるんだけど、宗教というのは無条件に信じなければならない物。しばらくは続けたので、キリスト教に関する知識は増えた。聖書を学ぶという事で聖書を見ながら勉強会を開くので、赤ちゃんの時からクリスチャンだけど内容知らないっていう人よりは知ってるとか、いい面もあった。でも、悪い事をしていないのに悪い事をしているような感じや、神の名の圧力が自分の中で発生していたから、いつも自分に束縛されていた。自由が嫌いな人はいないと思うが、宗教で心が抑えられるって、幸せの為でなくて何のための宗教?私はだいたい人と同じことが無理自由な人間なので、宗教は無理だな、と後で理解した。

 

エホバの証人は無理な例:

・1914年に世界の終わりが始まった、その時を知っている人がいなくなる前にハルマゲドンが来る。→1910年より前に生まれた人ってもうすぐいなくなると思う。この宗教の終わりではないか。

・エホバの証人はハルマゲドンで生き残れる。亡くなったおじいちゃんおばあちゃんとも会える。ライオンとも仲良く暮らせるような楽園が来る!「ライオンは何食べるんですか?」って子供の時、聞いちゃいました。「おじいちゃんおばあちゃんがエホバの証人じゃなければ復活しないの、会えないの?」「エホバの証人でない良い人は助からないの?」「人間は神様が作ったのに何でエホバの証人じゃないってだけで殺しちゃうの?」

・ではペットは?「人間だけしか生き残れません。ペットは復活しません。」当時一番愛していたのがペットのインコだったので譲れなかった。

・映画のキスシーンで「結婚していない男女はしちゃいけない」なんて考えながら見るのか?ばかげている!(まあキリスト教系という事は辿って行けばイスラム教なんかも源流は一緒だから規律が厳しいのかも、とも思えないこともない。キリスト教以前の自然宗教ではこの辺おおらか、宗派によってキリスト教の違いも大きいし)

 • 聖書自体の中にもちょっとコレどーなの?というのがいくつもあったので、宗教は考えるものではなく文化の一部と思うようにしている。

 

が様々な宗教の中でも、宗教以外のプロパガンダでも稚拙な事柄は多い。

試しているのか? 馬鹿にしてるのか?

当時から、説明のつかない事はイヤだった。子供の時から筋の通らないことが嫌いだった。なぜだろう、読書を始めるより前には自分に備わっていたかもしれない。


 

 

「私とロシアとの接点」

 

ロシアと直接の繋がりなんて自分自身にはなかった。

父のおじさん達が日露戦争で戦ったと思うけど、母方もそうかな。

 

自分自身は音楽から関わりを持ち始めた。

家にチャイコフスキーの白鳥の湖レコードがあり、小1の時、格好をつけながらレコード盤に乗せ帰宅後毎日聞いていた。ジャケットは漢字が多くて難しくて読めなかったかったけど、白鳥が踊る白黒写真を見ていた。少しずつ読めるようになると、チャイコフスキーって?ロシアって何どこ?というのが始まりかな。

 

母は若い時に名曲喫茶や歌声喫茶に行っていた話をしていた。「歌声喫茶ってみんなで歌うのよ、大学生もたくさん来てて、カチューシャとかね、ロシア民謡とか…」うちのレコードコーナーに「ロシア民謡集というのもあった。これはロシア人が歌っている物だった。バレエ音楽のような物語性がないので子供の私は最初にあまり興味を持たなかったけど、別の機会に聞き直すと朗々とした歌声に心が洗われる気がした。ここでロシアと音楽は2点で関連付けられた。チャイコフスキーやバレエ音楽について本で読んだりするのはもっと後の事だ。

 

伯母の東京での最初の美容室は新宿御苑前にあった。当時の美容師は最先端の仕事で、多くの人に尊敬され「先生」と呼ばれていた。(そしてとてもとても儲かったらしい。弟たちをそのお金で早稲田大学を卒業させた、とも言っていた。札束にまみれた昔の写真が残っている。が伯母の妹たちの扱いは酷かったらしい。自分達だけ行って母は父親の死に目にすら会いに行かせてもらえなかったと恨んでいた。そんな扱いをされても離れなかった母も母だが。)

それで、場所が場所だけに、上級の家庭のご婦人方も見えていた。そこのお客さんの一人が、ご主人がソ連(ロシアかどこの都市かまで知らない)に出張した時のお土産の大きな鉛筆を姪御さん(私)にとプレゼントしてくれた。見た事のない文字が並んでいた。(伯母達は私が小学生になる頃には引っ越して交通の便が悪い郊外に引っ込んでしまい、次第にそんな方達とは疎遠になった。)  大人になった私はロシア語が読めるようになった、でその鉛筆には”えんぴつ”と書いてあっただけだった。(ロシア語は独学3年、埒が明かず、仕事を辞めた後、ロシア語の専門学校へ行った。)

 

小母さんは兄弟も政治家だったりした。国会に勤めていたような人なので、ソ連は嫌いだったはずだ。鉄のカーテンだなんだと、酷い国だなんだと言っていた。それを聞いて逆に興味を持った。

音楽やバレエが盛んで、有名な文学者も多く輩出している、つまり文化的な国である。宇宙に有人ロケットを飛ばしたし、オリンピックなどでスポーツも強いと知っていた。フィギュアスケートの美しさでも魅了される。いったいどんなところなんだろう…。

 

小母さんは小さかった私に読書の習慣をつけさせ、図らずも文学(チャイコフスキー等の伝記も含む)からロシアやソ連についての情報を得るのを助けてくれた。

英米やフランス文学も読んだが、内面を重視していた私にはロシア物の方がしっくり来た。

音楽に関しては、私には英米物は見栄えだけの虚構のように感じる作品が多く、あまり興味が湧かなかった。派手なのでハリウッド映画の音楽などにはピッタリだけど…。

 

 

「旅」

 

20歳になる前から小さい1人旅をするようになった。いつもお金がないので貧乏旅だ。

就職(公務員)後22歳の時、職場に頼み込み有休を3週間取らせてほしいと言った。巡回職員がいるので大丈夫かもと頼んでみたら、皆驚いたけどくれた。現在民営化済みの会社。「え、どこ行くの?ソ連?何があるの?」

 

所々に通訳を付けて貰って、予定を全部決めて”一生に一回だ”と大枚はたいて買ったバウチャーと貰ったソ連のvisaと共に入国。

これには、支援してくれた人の存在が不可欠だ。

就職時都内の寮に移った時、やりたいと思っていた事をいくつか始めた。”旅に役立つ英会話教室に通う”、”社交ダンスを習う”の取り敢えず2つ。社交ダンスは若い人のクラブに入った。学生も社会人もいた。その中に1人の背の高い優秀な大学院生がいた。「ソ連に行った事があるよ」と話していたらしいと聞き、情報を貰うため話しかけてみた。彼は状況を詳しく教えてくれ、不安を払拭してくれた。旅行会社やプランの建て方、ロシア語は教育TVとラジオでやっているとか、ソ連旅行記の本も貸してくれた。何か月も計画を練り、何度も相談に乗ってくれコメントしてもらい実現した。(親にはツアーだと言った)

 

一生に一度のつもりだったソ連、それは最初になった。その後ロシア、旧ソ連の国々、にも訪れた。

 

 

「その後」

 

あの時、社会人5年で辞めた。色々考えたけど、今しかできない事をやりたい思いの方が強かった。

そして、それは正しかったと思う。私は自由をより好み、選んだ

やらなければ後悔しただろう。そして今あれが最善だったと思っている。