先住民たちの喧噪からいくらか離れた所まで来て、ふと考える。薄暗く生き物の影が少ない通りの利点は、物理的に歩きやすいことだろう。そして、それと表裏の関係にある欠点は、

「お嬢ちゃん、どこ行くの?」

 けけ、と下品な笑い声が思い出したように響くことか。

 こういったことはナコがいた世界であれ、この異世界であれ、変わりがないようだ。とは言え、今絡んできているのは、ナコよりも以前に『選ばれた』連中のようだが。

 先ほどまで図体の大きな先住民たちの大群を見たせいか、彼ら――二人組だ――はいくらか小さく見えた。それでも彼らは大人と言っても差し支えない身体つきで、こうした状況を話にしか聞いたことがないナコにとっては、十分すぎるほど恐怖を感じる対象だ。

 声も出せず、一歩下がる。すると、

「おっと。こっちは行き止まりだぜ?」

 どうやら彼らは二人組でなく、四人組だったようだ。はっと顔だけ後ろに向けると、薄暗い路地のさらに細い脇道から、前の二人と似た背格好の男たちが、やはり下品な笑みを浮かべながら出てきたところだった。

 進行方向を九十度変えて、壁に向かって後退りする。が、すぐに背中が壁にぶつかる。

「コイツ、『選ばれ』てきたばかりか? ちょーっと若すぎるかもしんねぇけど」

「や、だからこそ、一部に高く売れんじゃねえかよ」

「お嬢ちゃん、俺たちも生きるためなんだ、恨むなよ」

 初仕事ではないのだろう。彼らの言動からそれが分かったが、ナコにとっては全く良いニュースではない。

 さっきから心臓が身体全体を叩いている。耳の奥の痛みが頭全体に響き始めて、目の前の光景がかすんできた。

 こんなところで、お兄ちゃんを見付けられないまま、終わるの……?

 四人組で一番ガタイのいい男が手を伸ばしてきて、ナコはぎゅっと目を瞑る。瞼の裏の光すら消えそうになった時――

「おーい。……いるのか?」

 声。一部意味の分からない言葉が聞こえたので、先住民の声だろう。この声の主は敵なのだろうか。それとも……

「ちっ! ヤツらが来た! ずらかれ!」

 リーダー格の男が叫び声を上げると、それまで余裕の笑みを浮かべていた男たちが一斉に声が聞こえてきた方とは逆に駆けていく。

彼らにとって、先住民は敵なのだろう。当面の危機は去ったが、敵の敵が味方であるとは限らない。

ナコも逃げ出したいのだが、先ほど手を伸ばされた時に固めてしまった身体がまだ動こうとしてくれない。

「おーい」

 ただでさえ薄暗い路地に更に闇が重なる。声と闇に誘われるようにナコが振り向いた先には大きな影。開けた場所からの強い灯りで逆光になっていてよく見えないが、先住民の成体、おそらくは男だろう。

「お、やっぱりいた。なんだぁ、ケンカしてたのか?」

 やたらと呑気な声が頭上から響く。先ほどのやりとりを見ていないからそんなことが言えるんだ、と思った後、彼らなら先ほどの光景もケンカにしか見えなかったかも、ともナコは思った。

「あ、キミ、足! 足を怪我してるじゃないか!」

 え? と下を見ると、確かに血が流れている足と、一部が赤く染まったガラス片が。気付かぬ内に踏んでいたのだろう。

 先ほどまでは恐怖が勝っていたこともあってか、痛みを全く感じなかったが、気付いてしまったその瞬間に怪我をしたのかと錯覚するほどに、急に痛みが襲ってきた。

「痛そうだな。大丈夫か?」

「……平気よ。こんなの」

 言って、ナコは男から顔を背ける。今のところ彼からは危害を加えようという意図は見えないが、うっかり信用して何をされるか分かったものではない。本当は涙がでそうな程痛かったのだが、強がって一歩踏み出す。

「っあ!」

「うわ。……大丈夫じゃなさそうだな」

 痛みに耐えかねて漏れ出た悲鳴に、男が驚きと共に心配そうな表情を見せる。そして、しょうがないな、と言いながらナコに手を伸ばして――

「や、は、離して!」

「こらこら、暴れない暴れない」

 ひょい、と抱え上げられたナコは手足を振り回して男の腕から逃れようとする。しかし、ただでさえ手負いのナコの力では先住民の男に敵うはずもなく、男の手はがっちりとナコをつかまえたまま離れない。こうなれば、恨みはないが、顔面に一発入れてひるんだところを抜け出すか。

 男の顔をきっ、と睨む。抱え上げられた今ならば簡単に手が届くだろう。ぶら下げられた体制から身体を捻り、手を振り上げ――たところでナコは固まった。

「ふう。ようやく分かってくれたか」

 彼を信用して動きを止めたわけではない。驚いたのだ。間近で、まともに見た男の顔が、

「お……兄ちゃん?」

 兄に似ていたから。

 いや、よく見ると風貌はそれほど似ていない。それでも兄と見間違えたのは、兄と同じ、優しさをその顔に纏っていたからだ。

「んじゃ、僕の家に行くか? あー、アパートは……なんだけどな」

 意味の分からない言葉がまた混じる。ナコをひょい、と抱えたまま――今気付いたが、これは俗に言うお姫様抱っことやらではないだろうか――、男は危なげなく歩き始める。

彼は兄ではない。それでも、ナコは彼を信じ始めていた。少なくとも傷の手当てをされてやってもいいくらいには。

やはり、先住民の男は兄とは似ていない。十日ほどの間、彼――名前はセイイチというらしい――と過ごしてよく分かった。

彼は何かをする時、いつもナコに伺いを立てる。おはよう。何飲む? ジュース? ミルク? 夜は何が食べたい? 怪我の調子はどう? 少し歩きに出てみる?

こちらの言葉が伝わったことはないが、それでも彼はナコに口を開くことをやめない。

兄はどちらかというと寡黙な方だった。セイイチのようにナコに笑顔を向けるようなことは稀で、いつも前を見据えていた。

そう、兄はいつもずっと先を見ていた。その横顔に憧れのようなものをナコは抱いていた。セイイチはいつもすぐそこ、足下を見ている。彼の横顔は見たことさえほとんどない。

もうひとつ。兄は歯を見せて笑うことは稀だったが、セイイチは、

「それじゃあ、行ってきます」

 いつもナコに全開の笑顔を見せる。どうしたら、ここまで無防備になれるのか、というほどに。

 そう、無防備にも彼は、見知らぬナコを部屋に置いたままほとんど毎日のように朝から晩まで外出する。この十日のうちの七日はそうだ。ナコと一緒に朝食を食べ、冷めても美味しいのを置いとくから、とナコのための昼食を用意して外出、そして夜に帰宅。

 最近ではナコの足の怪我も大分回復してきたので、少し開いた窓の隙間から外に出て散歩するのだが、そうしたことが出来る状態で外出することも無防備だ。最初の方こそ彼に注意はしたのだが、

「ん? 今日の晩ご飯? んー……でも作ろうかな」

 言葉が通じないため、万事こんな感じだ。

ちなみに、彼が何を作ると言ったのかは聞こえなかったが、それはとても美味しかった。異世界の食べ物は意外にも美味しいものばかりだった。

そういうわけで、怪我の手当、安全な寝床、美味しい食事を提供してくれるセイイチには申し訳ないと思いながらも、

「よっ、こいしょっ、と」

 ここ二、三日はこうして窓の隙間から外に出ている。このまま何もしないでも、セイイチの所にいればそのまま彼が養ってくれそうな勢いだが、そういうわけにもいかない。

 だって、あたしには目的があるから。

 自分自身に言い聞かせて、今日も懐かしい影を探す。と言っても、先日までは周囲をゆっくりと散歩するだけの、半分リハビリのようなモノだったのだが。

 今日からは本格的に探そう。当てがないのは最初と変わっていないが、拠点があるだけで心強さはかなり違う。