祖父母が他界した19才の時

わたしは県内の大学に通っていた
 
県内だが、100Km以上離れていたので
生まれてはじめての一人暮らしをしていた
 
大学の選択もしかり、高校の選択も
わたしの選択基準は周りからの評判と
ほどよい地元からほどよい距離の場所にあることだった
 
 
高校受験の時、担任の先生からはわたしの志望校よりも偏差値の高い市内の学校を受験した方が将来の進学のためにもいいと勧められた
わたしは少しでも地元から離れたい一心で
あらゆる理由をつけて市外の志望校を受験した
 
当時、わたしはテニス部に所属していた
父はテニスでインカレ出場するほどの経歴があり、テニスをはじめたわたしを見て、喜んだ
わたしは、今まで接点のなかった父と
テニスを通じて、はじめてつながりを持てた気がしていた
 
わたしは、運動神経はあるが体力がない
時々、父からテニスを教わることがあったけれど、スタミナがなく、持続しないわたしに対して、父はとても厳しかった
 
高校に進学してもテニス部に入部したが
自分の実力のなさを思い知って、一年半くらいて退部した
 
父を裏切ったような罪悪感を拭えず
帰宅部になったわたしは、ひたすら友だち作りに専念した
 
はじめは、全てが新鮮で楽しかったが
幼い時から、友だちと遊ぶ経験が少なかったこともあり、友人と自分の距離感がつかめず、友だちといても、どこか孤独をかかえていた
どこか息苦しさを感じていた
 
大学に進学すると、高校時代の友人とは見事に疎遠になった
 
 
 
将来に直接的な関わりが重視される大学受験は、わたしにとって悩みのタネだった
自分が何がしたいか、全くわからない
だから、幼い時から習って、唯一続いていたピアノ、教育熱心だった祖母の面影、周りから見ても反対されにくいであろうということを総合して、考えた結果、
わたしは教育学部を受験することにした
 
ただ、教育学部は偏差値が足らなかったので幼児教育で幼稚園教諭の資格がとれる県内の大学受験を決めた
 
担任の先生からは合格は難しいと言われていたが、わたしにはよくわからない自信があった
 
一般受験で志望校に合格し、ひとまず幼稚園教諭の資格を取得するためのカリキュラムを取り続けていた
 
 
知り合いのいない新しい環境で不安だらけだったが、大学には図書館があり
本を読むことが好きなわたしは、読書に没頭できた
 
大学には憧れる素敵な女性の先輩もいて
合コンや夜遊びもした
都会に近い暮らしは刺激的だった
 
アルバイトもはじめた
ダイエットにも成功した
髪の色も明るくした
大人になれた気がした
 
 
 
しかし、わたしの一人暮らしは2年半で終わった
 
 
ブレイカーが落ちたように
全てのやる気がなくなり
過食がとまらなくなった
家から出ることができなくなった
学校へ行くことができなくなった
 
 
わたしの異常に気づいた父によって、
わたしは一人暮らしの家を引き払い実家に帰った
 
 
両親に理由を聞かれたが、当時のわたしは自分の気持ちがわからなかった
泣くしかできなかった
 
唯一感じることができた感情は
周りのためにこれだけやっているのに
それを察してくれない両親への怒りと
高額の学費を出してもらっているにも関わらず、学校に行くことすらできない自分への不甲斐なさだった
 
両親と話し合った結果、
卒業できる最低限の単位を取ることにした
2年間でかなりの単位を取っていたので
大学に通うのは週に3日くらいで済んだ
そのため、高速バスを利用してわたしは大学に通い、大学を卒業した
 
また、ここでも罪悪感が生まれていた
全く減らない罪悪感を抱えて、わたしは社会人になった