おはようございます。
って、朝、書き出したけど、もう昼になりました…。

こんにちは。

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いい天気です。

ご覧の通り、うちは田舎です。

近所で、誰かが焚き火をしているので、

この写真を撮った後、

モクモクモクモクと、煙がねー
(田舎あるある)


さて。

今日は、父方のおばあちゃんの命日です。

私は、物心つくまでおばあちゃんに育てられました。
あ。複雑な家庭の事情とかじゃありません。
両親が共働きだったからです。
田舎暮らしだから、
じーちゃん&ばーちゃん→畑仕事
若手→街で働いて稼いでくる
これが、うちの地域では典型的な定番スタイル。

でも、どうやら、うちはその中でも、
父が家にあまりいない率が高い家だったことが、先日の父の還暦祝いで明らかになりました。

さて、話は戻って、本日、命日のおばあちゃん。
と、私の話。

物心ついた時から、おじいちゃんやおばあちゃんに育てられた私。

我が家は、どうやら、祖先代々伝わる由緒正しき家だそう。
お城のお殿様から村開拓のためにこの地域へ移住し、開拓を行ったそうです。
(町内の歴史書にも載ってた)

それを言いきかされて、育った私は

この町内で変なことしちゃいかーんゲロー


田舎だから、噂はよくも悪くもあっと言う間に知れ渡ります。

だから

■町人に会えば、ちゃんと挨拶する。
■他所のミカンや柿が美味しそうだからと言って、勝手にとってはならぬ(当たり前)。
■もしもとったら、多分公開処刑レベル。
私は住むところがなくなる…ガーン

さらに輪をかけるように、

当時の田舎では珍しい「一人っ子」しかも「長女、一人娘」そして「初孫(両家)」。
という、オプションもカスタマイズされています。

ただですら、歩いてたら
「あれは、⚫︎⚫︎さんところのお孫さんよー」とか、畑仕事してるおばあちゃんたちにひそやかれてるのに、
こんなオプションまでついてたら、
余計、目立つし…ゲロー


もー、絶対、道に外れたこととか、
近所で噂になるようなこととか、
目立つようなこととか…

絶対、ダメだ‼︎

ひたすら、いい子に。
ひたすら、感じよく。
ひたすら、周囲の期待を裏切らず、やってくしかない。

と、子どもながらに「意識高い系」を目指す決意のもと、やってきました。

私が保育園の年中さんくらいになった時、
おじいちゃんとおばあちゃんの体調がすぐれなくなり、入退院を繰り返す日々がやってきました。

いつもお迎えに来てくれたおじいちゃんが入院しました。
おじいちゃんは、口数少ないけど、孫溺愛だったので、保育園の門が空く前にお迎えスタンバイし、私はお迎え一番乗りで帰宅してました。
でも、おじいちゃんとおばあちゃんが入院し、働いていた母がお迎えすることになったので、延長保育決定。
そして、延長保育時間間際、もしくは、ちょっと過ぎてからのお迎え。
私は、お迎え一番早い子からお迎え一番遅い子になりました。
物心ついた時から、人の目や人の期待を意識してやってきていたから、
事情はわかるにせよ、なかなかお迎えに来ない母に対する保育園の先生たちのイライラは、なんとなく伝わりました。

母を悪く言われているような気がして、
私がいるから、母は先生からイライラされるんだ。
周りの人たちをイライラさせてしまう、私はダメな存在なんだ…
と、薄暗い保育室で一人遊びをしながら思いました。

時は流れ、私は小学生になりました。
まだおじいちゃんとおばあちゃんは入退院を繰り返しています。
家に一人でいるのは危ないからと、学校が終わると町内にある母の職場へ直接行き、スタッフルームで母の仕事が終わるまでに宿題を済ませ、そこから、おじいちゃんもしくはおばあちゃんの入院する病院にお見舞いに行き、帰って寝る。
という生活が始まりました。

母の職場の人達はみんな優しかったけど、どこか「かわいそうな子」と思われてるような気がしてました。
大好きなおじいちゃん、おばあちゃんに喜んでもらいたくて、勉強もがんばりました。
その時の私は通知表や成績や評判でしか、おじいちゃんとおばあちゃんを喜ばせる術をしりませんでした。
小学校初の女子で生徒会長にまでなるレベルです。
(今、思えば、すげぇな、私滝汗
おばあちゃんが退院すると、今度は私にもう一つ役目ができました。
6つ下の従兄弟のお迎えです。
私は学校から帰ると、従兄弟を保育園までお迎えに行きます。
お布団を持って帰る日は、自転車の荷台にお布団を載せて、全然言うことを聞かない自由奔放な従兄弟の面倒をみます。
私が方が年上で、従兄弟よりも物分かりのいい私は、「譲る」ということが定番化しました。


私が中学生になった時、
おばあちゃんの体調が急変しました。
明らかに今までの様子と違います。
ある日、父に呼び出され、
おばあちゃんの病気は癌であること。
様々な箇所に転移していて、もう長くないこと。
を告げられました。
余命わずかになったおばあちゃんは、自宅療養を選び、家に帰ってきました。
中学生で鍵っ子だった私は、帰宅すれば誰かがいるという状態になりましたが、
私の知っている心丈夫で姉御肌のしっかりしたおばあちゃんはそこにおらず、
痛みを抑えるための強い薬のため、
うわ言を繰り返し、
時には大きな声で叫んだりする
見たことのないおばあちゃんがいました。

私は、大好きなおばあちゃんの変化が受けいれられず、いくらおばあちゃんが呼んでも、叫んでも、苦しそうでも、そこに近くことができませんでした。
おばあちゃんに優しくできない。
そんな自分が心底嫌になりました。
家にいることも苦痛でたまりませんでした。
でも、いい子でいなくてはいけない。
少なくとも、周りにはいい子と思われていなくてはいけない。
と、小さな時からずっと思っていたので、ひたすら耐えて家に居続けました。
この当時、小学生になった従兄弟も伯母が迎えにくるまで私の家におり、一緒に過ごしていました。
宿題を教えたり、おやつを食べさせたりと、お世話するという私の役割がありました。
ここしか、私の居場所はない。

おばあちゃんの寿命が残り僅かになり、息を引きとる間際、おばあちゃんが私を呼びました。
おばあちゃんは私に言いました。
「⚫︎⚫︎⚫︎(従兄弟)をよろしく頼むよ。」


そして、今から20年前の今日の明け方、
おばあちゃんは息を引き取りました。

お葬式の時の記憶は全くありません。
なぜか、ピアノの下に座ってて、親戚の人にビックリされたこと。
おばあちゃんが入ったお棺が焼かれる直前に隣にいた幼なじみが泣き出して、そこではじめて私も泣いたこと。
そのくらいしか、記憶がありません。

後々聞いたら、私は、おばあちゃんが亡くなった日から数日間、ずっと、ぼーっとして何も喋らず、ひたすら寝ていたそうです。

おばあちゃんの遺言のような
「⚫︎⚫︎⚫︎(従兄弟)をよろしく頼むよ。」
と言う言葉は、
私の心に深く残りました。

従兄弟をしっかりさせないと、ダメだ!
私がちゃんと面倒みる!
という責任感が生まれました。
それは、なぜか
「従兄弟をちゃんとした人にしないと、私の幸せはあり得ない」
と、いう義務感に変わりました。
私が幸せになるために越えなくてはいけないハードルになりました。

けれど、従兄弟はやっぱりちっとも言うことは聞かないし、勉強もできない。
髪も金髪になってるし、体型もワガママボディ。
彼氏も私に無愛想で挨拶すらまともにしない男。
そして、そんな男といつの間にか結婚してる。

私が思い描いてた従兄弟の幸せから、
かけ離れた状態になってました。
そんな従兄弟にも腹が立ったけど、それよりも、そうできなかった自分が許せなくて、従兄弟とも会うのが嫌になりました。
そして、私と従兄弟の距離はだんだん離れていきました。

そして。
【私は、病気で苦しむおばあちゃんを見捨てたあげく、遺言すら守れなかった、孫です。】

そんなラベルを、私は自分で貼りました。

振り返ると、私はそのラベルを隠したくて、必死でした。
だから、自分の感情よりも、周りの評判や世間体を重視し、嫌味じゃない程度に目立つことばかりを力を注いでました。
本来は目立つ、華があるタイプなんです。
でも、嫌味じゃない程度に。
これが最優先事項だから、目立ちそうな瞬間になったら、
パッと離れたり、受け入れを拒否したり、手放したり、諦めたりしていました。

だって、
【私は、病気で苦しむおばあちゃんを見捨てたあげく、遺言すら守れなかった、孫です。】

だから、幸せになってはいけないんです。
なぜなら、幸せな人って、目立つんです。
ダメな私は、目立ってはいけないんです。
そう思い続けて、ずっと生きてきました。

けれど、逃げるほど追いかけられるのは、本当で、私はどこに行っても、どこに所属しても、目立つ人に気に入られてしまいます。
職場、コミュニティ、彼氏…
目立つ人に必ずと言っていいほど、見つけられ、気に入られてしまいます。
そして、
「今までどこで何してたの?(どこに隠れてたの?)」
と、掘り出し物的な発言をほぼされる始末。
だから、私は極力、目立たないように、おとなしく静かにやり過ごし、
目立たざるを得なくなると、私から離れるか、向こうが離れたくなるように働きかけていました。
(昨日、白状した私の恋愛経験の少なさも、おそらくここからでしょう。)


でも、こうやって、時を経て、
いろんな経験をし、様々な人と出会い、
あの時に貼った
【私は、病気で苦しむおばあちゃんを見捨てたあげく、遺言すら守れなかった、孫です。】
という自分で貼ったラベルを
おばあちゃんの命日の今日、
自分で剥がそうと思います。

ここまでちゃんと自分を振り返ることができる日が来ることは思ってすらなかったし、
こうやって、誰でも目にすることのできるブログに書くこと自体が自分ではあり得ないことでした。
人が自分の過去の苦労話をする=相手の同情心を動かそうとする
と、思っていたので、
カッコ悪いなぁ…
私はしたくないなぁ…
と、思ってました。

でも、そうでもないんだな。
と、自分で書いてみて思いました。
私が消化したい。
私がケリをつけたい。
私が成仏したい。
私が書きたい。
それだけでした。

人の心を動かしたいとか、
人を救いたいとか、
誰かを助けたいとか、
全然、そんなところまでは到達しません。

自分を救ってあげたい。
自分を労ってあげたい。
自分を楽にさせてあげたい。
そんなところです。

けど、ここ無くして、人を助けたり励ましたりできないということも、今までの歩みでやっと得心しました。

だから、おばあちゃんの命日の今日、
【私は、病気で苦しむおばあちゃんを見捨てたあげく、遺言すら守れなかった、孫です。】
というラベルを剥がして、
幸せになることの決意をします。

おばあちゃん、今まで心配かけて、ごめんね。
おばあちゃん、あの時は何もできなくて、ごめんね。
おばあちゃん、私を育ててくれてありがとう。
おばあちゃん、亡くなってから20年間、勘違いしたまま進み続けた私を見守ってくれて、ありがとう。

おばあちゃんの命日に
おばあちゃんへ
おばあちゃんが大好きな孫より。

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実は、数年前、母方のおばあちゃんからも私は遺言を残されてます。
私の祖父母の中で最後に亡くなったのが、母方のおばあちゃんです。
【(結婚相手は)誰でもいいんじやけぇね。】

見透かされてました。
バレバレでした。私。
この時から色んなことが変わってきました。
もしかしたら、この時点で、
ええ加減にせぇムキー


と、ご祖先の皆さまから言われてたのかもしれません。

勘がいい割に、自分のガンコさという性分ゆえ、素直に言うこと聞かず、めんどくさくて…



ほんと、すみませんゲロー



でも。
だったからこそ、今は、ちゃんと感じます。

どんな私でも、ちゃんと愛されてました。
どんな私でも、ちゃんと守られてました。

今も、グラグラで揺らぎっぱなしだけど、
揺らいだら、このことを思い出して、やっていくよ。
だし、もう、いい加減素直になるね。

私はもう、幸せになってもいい。


おわりデレデレ