お久しぶりでこんばんは。
lalaです得意げ

ここ最近またバタバタしていました。

まだ上手く書ける気分では
ないのだけど、ぼーっとしてる
訳にもいかないし。
書かないとこのままタイミングを
逃して書けなくなりそうなので、
長いけれど、お付き合い下さい。

そんな訳で、ここ最近、数ヶ月の
出来事です。

実は、3月入って最初の日曜日に
父が緊急入院しました。

69歳の時、軽い脳梗塞。
70歳で認知症。

それからは1人暮らしが厳しいので
グループホーム➡︎老人ホームと移り、
穏やかに暮らしてくれていました。

で、昨年1月に癲癇による
緊急入院。その後は再発することなく
暮らしていけていましたが、
薬が強いのか、若干運動機能、
思考能力ともに衰えが目立つように…。

寝てばかり、会話もそぞろ。
という感じでしたが、
娘はわかる様子で。

それが今年の3月。
誤嚥性肺炎による緊急入院。

真夜中の連絡でした。
どうやら癲癇が再発したのか、
それにより、誤嚥したものが
肺に入って肺炎を起こしたのか、
40度前後の高熱が…。

最初は原因不明で、病院に着くなり
挿管すると連絡があり、
数時間病状がわからなくて、
祈るばかりでした。

なにやら危ないとの連絡のみ。

調度その日は友人が泊まりに
来ていました。

高齢者の死亡の上位にランクインする
肺炎とは、風邪などで起こると
ばかり思っていました。

誤嚥(ごえん)などと言う言葉は
聞いたこともなかったけれど、
食道などの機能低下に伴い、
食事や唾などが胃ではなく、
肺に入ってしまい菌が入り炎症を
起こしたり、父のように癲癇で
肺に入ってしまうこともあるようで、
肺炎と言うのは必ずしも風邪から
だけではないのは知らなかったのです。

それまでの父は元気はないながらも
食事も食べれていて、定期的に検査も
していて、命にかかわる特別な症状は
殆どありませんでした。

本当に突然の連絡でした。

朝方になりひとまず熱は
下がって来たとの連絡があり、
様子を見ることに。

深セン生活も残り3週間くらい
あたりの出来事。

毎日様子を見に行ってくれる
姉に状況を確認しながら日々
過ごしました。

日曜日はそのまま友人をアテンド、
月曜に無事友人は帰って行き、
引越しやらの支度。
木曜に船便排出。

最初は意識が戻らないかも…。
と言われたのに、奇跡的にか
翌日は手足が動き、意識があると。

が、激しくないながらも癲癇の
発作が数日あったようでした。

ナースの隣にある処置室で
ずっと見守る状態で、
微熱は続いていましたが、医師も
看護婦さんも頑張って下さって
いたようで、
最初ほど反応は良くないながらも
声には反応をしているようでした。

そんなこんなで、夫くんの会社が
危篤のため、航空費を出してくださり、
船便排出した翌日の金曜日。
急遽少し日本に帰ることができました。

調度姉は、父が入院した翌々日、
長女が盲腸で入院して、毎日2つの
病院を行ったり来たり。

lalaが会いに行った時は、動けない
ながらも、発作もなく、熱も
微熱くらいで、声にも反応してる。
そんな穏やかな様子でした。
姪っ子は若干炎症が酷くて
10日くらい入院していたので、
姉はその頃本当に大変だったと
思います。

でも父は日に日に少しづつ容体が
安定して来ていたので、
翌月曜日にはまた深センへ。
最後のご挨拶や、荷造り、かたずけを
なんとかすることができました。

そこまでの父は殆ど変わりは
なかったのですが、
深セン最後の週には日に日に
呼吸器も外れ、薬も点滴も減ってきて、
回復に向かっている感じでした。

そんなこんなで、無事深セン生活を
終えることが出来、名古屋での新生活も
無事進めることが出来ました。

名古屋に来たあたりでは、
鼻からの点滴もとれ、流動食を
食べ始めたとの嬉しい報告までに。

大部屋にも移れる程の回復を
見せてくれました。

が、

奇跡の回復だったのかな。

大部屋に移った翌日から、
またも40度前後の高熱が出始めました。

冷やしてくれるので、日中は熱が
下がるのですが、朝にはまた高熱が、
の繰り返しに…。

部屋もあっという間に逆戻り。
またもナース脇の処置室へ。

そんな状態が1週間程続き、
またも危険な状態に…。
高熱のため、心臓が持たないかも
しれないとのことでした。

そんな訳で、4月11日の土曜日に
横浜に暫く帰ることにしました。
名古屋に来て約2週間のあたり。

lalaが会いに行った時は、
既に当初入院した時の状態に
戻っていて、自発呼吸が少ない為、
薬で眠らせ、呼吸器で呼吸させ、
安定した状態ではありました。

半日付き添っていましたが、
前日、前々日よりは安定していると
姉も言うくらいでした。

心配ながらも、姉宅へ帰りました。

4月12日 日曜日

朝方病院へすぐ来てとの連絡。

駆けつけた時には既に、
父の自発呼吸はないような状態でした。

そのまま呼吸器を外して頂き、
父は帰らぬ人になりました。

6時50分。

父 享年77歳でした。


あっという間の出来事でした。

最後に看取れたといえるのか、
やはり夜中や朝方に急変するようです。

泊まり込むべきだったか、
考えてももう仕方ない事ですね。

その後葬儀場へ安置。

火葬日程が少し混んでいたのか
日曜日に他界して、お通夜が木曜日、
葬儀が金曜日となりました。

既に母も他界していていないし、
父の兄弟も年齢的に皆さん
入院したりなので家族葬にしました。

そんな訳で、金曜日無事葬儀を
終わらせその足で名古屋に帰って
来ました。

あんまり葬儀が遠くなると案外
悲しみが薄れるような変な感じで、
葬儀も殆ど子供の代、従兄弟、
ほぼ母方の親族の参加だった為、
実感があまりない感じでした。

でも少ないながらも、棺には沢山の
お花を入れてあげれてとても綺麗に
見送る事が出来たかな。

母の時は少し大きくしちゃって
派手すぎたので、
父くらいの方がゆっくりお別れが
出来たような気がします。

ここ数年、結婚してからは中国が
多かったので、いっても年に
数回会えるくらいだったのですが、
実際には名古屋にいるせいもあるのか
また地元に帰れば父に会えるのじゃ
ないかな?と思う不思議な感じは
まだ当分消えなそうです。

父の魂はそばにいるのかな?

後半は施設内ばかりだったから、
きっと
今頃いろいろな人に会いに行ったり
いろいろな所を飛び回っているのかな。

家族、特に親子などは
産まれ変わってもまた身近に
存在すると言いますよね?

そんな訳で、いつも父との別れ際は
バイバイ!またね。
と言うのだけれど、
今回はありがとうと供に
また会いましょう。でお別れしました。

ま、そんなこと言っても
まだまだ涙腺緩いけどねショック!

忌引きが無事終わったら、
元気だして行きます。

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桜が散る季節には毎年
父を思うことになるのかな。