こんにちは、lalaです
。
実は、普通なら本日学校→友人(韓国人)とご飯。
の流れだったんだけども・・・・。
例のごとく、寝る頃に父からの電話攻撃を受けて、寝れなくなり
もさもさネットを6時までしてたから、朝起きれるわけも無く。
学校おやすみ・食事ドタキャンのダメダメlalaって訳であります。
そういえば、まだあんまり父のことを詳しく書いてなかったかな~。
ってことで、今回lalaの苦の部分にもちこっと触れておきます。
それにしても、水戸黄門の歌ってナイスな表現だと思う今日この頃。
苦と言っても、ウーンどこからどう書けばいいか・・・・
。
まぁ発端と言えば、母の死って所らへんからになるのでしょうか。
24、5歳?(既にあいまいですが)頃、母は病死しました。
姉は早い内から嫁に出ていて、当時は既に私と両親の3人で
住んでおりました。もともと持病のある母は、私が会社を辞め、
フリーターになるまでは(22歳頃)、全て1人で病院に通院しておりました。
何処が悪いかっていうと、気管支系統の病気でした。
しかし、併用してなのか目も悪かった。恐らく今の父より悪かったと
思います。(白内障も緑内障もずいぶん前に手術して、牛乳瓶メガネでした。)
第6感まではいかないけれど、全てカンで動いているような人でした。
でも、はっきり言えばフリーターになって一緒に(最初は月1ぐらいでしたか・・)
病院通いをするまでは、まったく母の病状を知りませんでした。
それこそ母は1人で頑張っていたんだろうし、
娘に弱気を見せない気丈なタイプだったのです。
しかも、難病指定されていたせいか、ほぼ国から医療費も
援助されており、お金に関しての文句を聞いていなかったせいも
あったかもしれません。
そんな訳で、私が母の苦労を知ることになったのは、
確か22歳間際に私が会社を辞め、23歳間際に長くお付き合いした
彼氏とも別れた頃からだったかと思います。
ふられた訳ではなかったですが、あんまり長く付き合っていて
今後どう生きていこうか、先が見えなくなっていた私に
母は優しかった。(この頃のことは又、恋愛編で書く予定。長いんで・・・。)
多分、その頃から母は若干の助けを私に求めてくることに
なったと思います。父は既に片目が悪く運転できませんが、(バイク野郎でした。)
私は免許を取ったと同時に車も買いましたから、嬉しかったんでしょうか。
「病院に連れて行って。」っというのが最初だったと思います。
フリーターになってから
1年目ぐらいにして、母は肺炎になりました。
確かそれが最初の入院だったような・・・・。(既にうろ覚えです。)
それからは多分、もともと悪い肺が悪化したんでしょうか、
余命宣告されました。「もって、後2年でしょう。」ってことでした。
まだ若い気十分の私には、かなりショックな宣告でした。
ガーン((゚m゚;) ガーン((゚m゚;)
ガビーン((゚m゚;)
鋭くじわりじわりとやってくる余命宣告・・・・。
でも、父は仕事でしたし病状を聞くのも、病院に連れて行くのも
私の役目になっていて、その辺に関してはかなり精神面でも
苦しい思いをしたことを覚えています( p_q)。
それからは病院も隔週になり、検査も増え、姉も出戻ってきたり。
フリーター生活も、楽しいばかりではなく、案外家族に
振り回された生活。半主婦業も兼業ということになってきました。
ご飯の支度、洗濯、買い物、病院への通院。派遣で働く姉の子供の
お迎え。そして子守。(掃除は母が好きなせいか、ほぼ免除でしたけど・・。)
自分の人生を考える所か、いつのまにか母の病気中心・
姉の生活支援中心(私は嫁か?)の生活構成になっていました。
つづく・・・・。
(ああ!!、父の病状までの道のりがとおいい・・・・・・。)
ひとまず、花文字教室に行ってまいりますA=´、`=)ゞ。