PL処世訓第20条「物心両全の境に生きよ」 | 御木白日のブログ

御木白日のブログ

学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.「物心」について

(1)心と物
 人間は心と物でできています。人間の身体は物です。心と物(身体)が一体となって人間として生きています。そして、人間は自分や他人の心、そして物を素材に芸術する存在です。他人の心を素材とすることは、ときに非常に危険です。その人の人格を傷つけるおそれを伴うからです。
 物と心について、二代教祖は、芸術の素材としての物(対象)と芸術する自己(心)として捉える場合と、心と「物である身体(肉体)」とが一体となって「人」があると捉える場合とがあります。芸術する主体(心)と客体(物)との関係として論じられるときと、芸術する主体である「人」が心と物から成っている関係として論じられるときがあるのです。「人」の意味が一つでなく、いろいろな意味で使われるのでこのようなことになってくるわけです。
 まず、芸術する主体である自己と芸術の素材である「物」との関係です。このとき、自己は「心」として捉えられています。
 〝「物心両全の境に生きよ」とは、物(対象)と自己とを一体たらしめた境地に生きよ、ということです。「物心一如」という言葉がありますが、物心両全も物心一如も意味は同じであります。物と心は一如、一体ということです。〟
 次に、「心」に代表されている自己も「人」であり、「心」と「物」である身体とで成っていることに言及されるのです。
 〝心と肉体とが一体となって「人」というものがあるわけです。同じように物と心とがそれぞれの場を持つのでなく、完全に一体となるとき、すなわち物心両全の境において、真の芸術はなるのです。〟
(2)心と身体
 人は心と身体(物)から成っています。
 〝そういう物と心がひとつになって、はじめて物事—神業—というものは成り立つのです。肉体と心がひとつになって「人」というものがあるのです。人と肉体とが離れては、もはや「人」として存在することはできないのです。肉体に生命が宿されてはじめて「人」といえるのです。〟
 芸術する、献身(みささげ)する、実践する、そのとき身体は極めて重要です。「人生は芸術である」の教えでの身体の意味と価値はとても大きいのです。
(3)芸術する主体(心)と素材(物)
 〝人と物とは相対的に現じております(「一切は相対と在る」PL処世訓第7条)。この物を人が真に生かし働かすとき、人と物(対象)は一体となるのです。そこに完全な調和が生まれ、新たなる美が造出され芸術がなるのです。自分にとらわれても対象に即(つ)き過ぎてもこの調和は生まれないのです。己(おの)れをむなしくして神に祈り、一生懸命に誠をつくし、ひたすら打ち込んでいくことです。〟
 私たちが芸術するとき、「物」はとても広い意味になること、芸術の素材には限りのないことを二代教祖は説くのです。 
 〝ここにいう物とは、いわゆる物質だけをいうのではありません。物事・事柄・事情・型・形態・方法というように、心以外の一切のものが含まれます。位階勲等とか椅子・地位・立場なども、すべて「物」であります。〟
 「心以外の一切のもの」と「物」を二代教祖は定義しています。私は、自分の心も他人の心も私の芸術の対象となり得ると、もっと広く考えたいのです。「Tow in One」です。私の中には「芸術する私」と「私の芸術の対象となる私」の二人の私がいると考えるのです。他人の心や身体を私の芸術の対象とするときは、その人の人格を傷つけるおそれが大きいので注意しなくてはなりません。
(4)主体が客体でもある
 三島由紀夫のようにボディービルやボクシングで自分で自分の身体を鍛えたり、身体的修練のため「ヨーガ修行」をしたり、比叡山で行われている「千日回峰行」のような修行を実践するとき、自分の身体が自分の芸術の素材となるのでしょうか。
 また、「心の修養」を積む、「心を鍛える」、「心境を向上させる」とき、自分の「心」は自分の芸術の素材なのでしょうか。
 結論をいえば、自分の身体も心も芸術の主体であると同時に芸術の素材でもあり得るのです。
 「マインドコントロール」は他人の心を素材とする芸術ということができます。それは「悪しき芸術」という含意を伴います。ある種の団体や政党が行ってきた「自己批判」や「思想教育」、「思想改造」などもそれにあたるものです。
 他人の身体が芸術の対象となる典型は、医療行為、美容整形でしょうが、その方向性が狂うと、「優生学」、ナチスドイツの「ホロコースト」、そして「民族浄化」(エスニック・クレンジング)という人間の最も忌まわしい局面を現出してしまいます。とても恐ろしいことです。

2.「両全」について

(1)心身一如
 「両全」とは、「両方とも完全であること」ですから、「物心両全」は、物も心も完全であることです。人間でいえば、身体も心も完全であることです。身体と心が完全な人が芸術すれば、それは完全な芸術となるだろうという理想的な形が想定されています。人はそれを目指すべきだという方向性が示されていることになります。
 二代教祖は、「みしらせ・みおしえ」の真理を科学的にも裏付け、発展させるために「PL医学」を展開されました。「心身一如」を人のあるべき姿として、心の状態が身体に及ぶという真理が科学的にも明らかにされるべきだと考えられたのです。
 最近の脳科学では、人間の心の作用や働きとされているものが、脳内の電気的なメカニズムに還元できるらしいということです。
 「宗教と科学は一致すべきである」とのPLの教えがその具体的な姿を明らかにしてきているようにも見えます。
(2)「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
 これまで健全な身体は健全な心からもたらされる、心が健全でないと身体も健全でなくなるという「心 → 身体」という方向性を見てきました。
 「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は方向性が逆の「身体 → 心」です。
 PLの教えでは、「精神(心)→ 身体」と「身体 → 精神(心)」の二つの方向性を二つながら大切にします。この場合「献身(みささげ)」がキーワードになります。「みしらせ・みおしえ」の教えは「心 → 身体」の方向性で、身体に現れた異常の原因が心に在ると考えます。そして、身体を使う「献身(みささげ)」によって心を治療しようとする「身体 → 心」という方向性をとるのです。
 神と人との関係について、私は「神は恵みあるのみ、人は献身あるのみ」と信念しております。この「神への献身」の方向性を「他の人々への献身」へと、つまりタテの関係をヨコの関係へと転換し、実践し、生きるのが私たちの目標でもあるのです。「他の人々への献身」=「神への献身」なのです。
(3)「恒産無きものは恒心無し」
 安定した財産や収入がないと正しい心を持つことが難しい、という孟子(前372頃〜前289頃)の言葉が「恒産無きものは恒心無し」です。
 「恒心が恒産をもたらす」のではなく、「恒産が恒心をもたらす」、つまり「心 → 物」でなく「物 → 心」です。
 実はこの慣用句には、前置きがあるのです。「民」、すなわち「普通の人々」にとっては、という前置きです。そして「士」、つまり「支配層の上流階級の人々」にとっては、「恒産無くして恒心有り」だというのです。
 孟子の性善説と荀子(前298〜前235頃)の性悪説との関係に関わってくる問題です。性善説と性悪説は、矛盾対立するものではなく、いわば棲み分けることにより両立するものだったというのです。性善説は「支配層の上流階級の人々」に妥当し、「普通の人々」には性悪説が妥当するというのです。
(4)「心頭を滅却すれば火もまた涼(すず)し」
 どんなにすさまじい火の熱さも精神集中によってそれを無いものとすることができ、灼熱の火による身体的な苦しさを感ずることもなくなるという快川(かいせん)和尚の有名な偈(げ:詩の形で、仏の徳を讃美し、教理を述べたもの)です。仏教的には、「心頭、火を滅却すれば、また涼し」が正しく、「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」は誤読とのことです。滅却する対象は火(物)であって心頭(心)ではないというのです。
(5)「客観の境地」から「主客一致の境地」へ
 人は神によって生かされ、自由に芸術することにより自ら生きています。そして、物は芸術の素材となることによって、人によって生かされるのです。
 「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす為にうまれたるものと知れ」と初代教祖は「一切のもの」を主語として教えを説きました。
 二代教祖は「一切のもの」を人が芸術するときの素材であると位置付け、その素材を芸術する「人」を主語と捉えたのです。素材としての「対象」(物)の方からアプローチしたのが初代教祖です。二代教祖は素材を芸術する「人」(心)へと、その視点を転じたのです。
 初代教祖が「客観の境地」、二代教祖は「主客一致の境地」と同じ境地を力点を変えて表現されたことに通ずるのです。

3.「境」について

(1)「境」と「境地」
 なぜ「境地」ではなく「境」なのでしょうか?
 「境地」といいますと、心のある一定の状態、静的なイメージです。他方、「境」といいますと、それは、不確実な〝ゆらぎ〟を伴うものであり、相互がぶつかり合う、動的なイメージです。神からの素材を人が芸術することは、人が神と一体となる瞬間の爆発なのであり、その爆発のエネルギーの「場」が「境」なのです。「物」と「心」の相対(あいたい)するものが一如となる瞬間、爆発が起きるのです。
(2)「六根六境(ろっこんろっきょう)」
 仏教では「境」に対象(物)という意味があるそうです。この世界の「一切」は何か?について、ブッダは「六根六境が一切である」と答えたとのこと。
 六根とは、人間の身体の感覚器官、または感覚能力である「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」の総称です。
 六根によって知覚される六識(「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」)の「対象」である「色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)」が六境です。
 仏教の唯識論(世界のあらゆる存在や事象は人の心の本体たる識の作用によって仮に現れたものにすぎないとする考え方。「唯心の所現」)では、六識に加えて、さらに第七識の末那識(まなしき)と第八識の阿頼耶識(あらやしき)を置きます。末那識は「自我」、「自己意識」のようなものです。阿頼耶識は人間存在の根源的な、フロイト流に言うと「無意識」のようなものですが、三島由紀夫の『豊饒の海』四部作では、輪廻転生を説くにあたっての重要なキーワードになっています。
(3)感動(心)と言葉(物)
 身体と心が一つになってはじめて現実の生きている、芸術する「人」と在ることができます。物事に心をこめ、物と心を一体たらしめるところに物心両全の境があります。
 短歌でいえば、感動(心)と言葉(物)が一致してはじめて一首の歌になると二代教祖は説いています。
 〝物だけでもいけない、心だけでもいけない。心と肉体とがばらばらになっているようでは、ほんとうの「人」とはいえないのです。
  短歌でいえば、感動(心)と言葉(物)が一致してはじめて一首の短歌となるのです。感動と言葉がピタリ一致したときは、その歌は五七五七七のリズムに乗った立派な歌になるのです。〟
 〝短歌の場合について考えてみましょう。短歌の中には言葉(物)と感動(心)が渾然とひとつになったような秀れた作品もあります。そういうときの歌の中の言葉は、もはや単なる言葉ではなく、光り輝くような調(しら)べをもった言葉になるのです。またそこまで短歌が味わえるようになれば、短歌というものはとてもやめられないほど楽しいものになります。〟
 感動(心)と言葉(物)とが一体となった物心両全の歌には「しらべ」が強く現れると二代教祖は説き、それは日常生活も同じであるといいます。「しらべ」高き日常生活こそが芸術生活の目指すところで、それは物心両全の境のものです。それをわがものとするには短歌に親しむことが早道になると二代教祖は説くのです。
(4)物の使い方
 物心両全であるために、人は物をどのように使うべきか、「物の使い方」について、二代教祖は興味深い話をしています。
 〝物の使い方という問題があります。気前よく使うとか、けちけちして使うという問題があります。これはどちらが正しいとか正しくないとか、簡単に判断できることではありません。要は芸術になっているか否かを基準として考えるべきことです。〟
 〝芸術するには、素材がたくさんあるほど自由な芸術ができます。逆にその素材を粗末に扱えば、その鏡としてそれだけ粗末な芸術になる恐れがあります。〟
 〝物というものは、あまり惜しんで大切にしすぎますと、結果はかえって大切にしたことにならないのです。物に不自由しなくてはならないことになります。物が自分のために働いてくれないことになります。そういう点からいえば、物を大切にしすぎたり、いたずらに節約したりすることは間違いであります。物に対する即(つ)き過ぎです。
  物の使い方も、即(つ)かず離れず、丁度よい使い方をすることが大切です。〟
 二代教祖は、芸術の素材であるはずの物やお金について、出し惜しみしたり、ケチケチすることを「貧乏根性」として、良き芸術をする妨げとなることを教えています。物自体、お金自体に価値はなく、芸術の素材となって初めて価値があるのです。
(5)物心両全は「信仰に依(よ)る」
 人は物事に臨むとき、常に神に祈り、信仰のうちに生きることによって、ようやく物心両全の境に生きることができると二代教祖は説いています。
 〝人は物心両全に生きなくてはならない、でなければ芸術にならない、ということになります。自己表現の妙諦は、「物心両全の境に生きる」ところにあります。しかして、常にこの境地に生きるためには信仰するよりほかにありません。
  ひたすら信仰に生きつつ、何事をするにも神に祈り、心をこめ、誠意をつくすことです。物心両全になるよう努力をしたうえにも努力をするのです。しかしそれでも果たして物心両全になるかどうか、自信は持てないというのが本当でしょう。
  ひたすら神に祈り、ひたすら努力し努力するところに、かろうじて物心両全の境に達しうる、というほどのものです。そのためには常に緊張して信仰を怠らぬようにすることです。みおしえを守ることです。みおしえを守ることは物心両全に生きるための、大切な心得であります。〟
 物心両全の境に生きることは、信仰に生きることにほかならないのです。