カルマと徳、って何? | 香川県高松で唯一の新体操バレエ専門整体、患者さんの身体と本気で向き合う、三木整体のブログ !!

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うどんの国、香川県で新体操バレエ専門整体をやってます。怪我が溢れていたクラブチームのセルフケアを指導し、1年で怪我ゼロのチームに。安全に柔軟性を高めたい、怪我の治療と予防法が知りたい、上手な身体の使い方を知りたい。そんなあなたの願いを叶えます!

はい、コジマです。
本日もブログを読んで頂き、本当にありがとうございます。


先日、霊障の患者さんを数人みて、カルマについて質問されたので、書いてみます。

スピの世界だと、徳を積みなさいとか、カルマを重ねるな!!
なんて事をしばしば耳にします。
あるセミナーでは
「君たちのカルマを精算したくばウチの商品を買いたまえ」
なんて事を言うセミナー団体代表様もおられる様です。(マジでいた)
これってどう言う事なんでしょうね?

と、言うわけで今日はカルマと徳について宗教と哲学と師匠からの教えを交えた私の見解をお話してみます。

これを見れば、カルマと徳がなんなのか?全てわかる様にしてありますので是非最後までご覧ください。

まず、一般的にカルマとは業と言われていますが、そもそもは釈迦が仏教を開く前のバラモン教の教えの中にあったものです。

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バラモン教と言われると、昔少年ジャンプで連載されていた宮下あきら先生の「バラモンの家族」しか思い出せない私ですが、このバラモン教の中にはカーストと言う身分制度が存在します。

大きくは上から、バラモン、クシャトリア、バイシャ、スードラ、の4階層に分かれていて、今現在でもヒンドゥー教の中で残っています。

この身分制度の根底には輪廻転生の考えがあり、前世で良い行い(徳を積んだもの)は高位の位に生まれてくることが出来、悪行を働いた者は低位の位に生まれ落ちる、という考えです。

カーストは生まれ落ちた家柄でその人の一生がほぼ決まると言うエグいシステムです。
日本で言うなら江戸時代を思い浮かべればわかりますが、農民に生まれたら一生農民ですし、下級武士の家柄に生まれたらずっと上士の言いなりです。

このシステムの最大の問題は、自分の人生を自分で決められない、社会全体の自由が制限されたものになっているところですが、バラモン教ではこの苦しみは前世でのお前の行いが悪かったせいなので、今世ではそれを精算し、来世は良い位に生まれられる様に努力せよ。
と教えられます。

「前世で誰かを苦しめたのならば、今世ではアナタが同じ苦しみを味わいなさい、そして、自分のやったことを悔い改め、来世のために善行を行い、徳を積みなさい。」
と、カルマ=悪行、徳=善行、と言う、カルマと徳の関係が成り立つわけです。

ですが、これでは少し解釈の間違いがあります。

カルマとは業の事、自分が行った全ての事なので、善悪に関係なく、自分の思考、言動、行いは全てカルマ、と言うことになります。

そして、徳とは、積もうと思って積まれる訳ではなく、自分の意識とは無関係に積まれていくものです。

これに対して
釈迦は「因果応報」を説きました。

因果応報とは
行った事に対しては、それに応じた結果がやってくる、それ以上もそれ以下もない、と言う感じです。

バタフライ効果の様に、エネルギーが巡り巡って結果を出すのであれば、確かに私たちが生まれてくる国や家、親と言う条件が気づいた時には私たちの意思では選べないのは、こうした前世でのカルマによって生み出されたエネルギーが関係しているとも考えられます。

そして、因果応報の理の通り、今世でなんらかの「苦」が押し寄せてくるのは、確かに前世のカルマの精算が行われていると考えても良いでしょう。

しかし、その中で、「前世で自分が悪いことをしたから、こんな目に遭っているんだから仕方ない」と諦めたり、苦しまなければカルマの精算が出来ない、などと考えるのは大いに間違っています。

苦しい事が押し寄せても、乗り切る事は出来るし、カルマの精算も、必ずしも苦しみを伴う訳ではありません。

私自身、昨年父が私の誕生日に自殺未遂をし、そこから亡くなるまでの3ヶ月ほど、父と母と弟を交えて、それはそれはヘビーな精神的なやりとりが繰り広げられましたが、正にここがカルマの精算時であると感じて、生涯で最も、父と、家族と、自分と向き合いました。

それは決して楽しいものではありませんでしたが、苦しいだけでもなく、笑いあり涙ありのドラマをワンクール繰り広げた感じです。

そして、父の最後は母に一生分のありがとうを伝え、母の心を救い、私の心を救い、静かに逝くと言う、一度は自殺しようとした弱き人間とは思えない、本当に見事な最後でした。

宗教だと、この苦しみに付け込んで洗脳しにきたりしますが、カルマがあったとしても、その精算は決して苦しいだけのものではなく、自分に足りない何かに気づくことでこれからの人生をより良いものに、豊かなものにしてくれる機会なのです。

そこで、純粋な良心や愛の精神から自分の為、誰かの為に必死に足掻く事で積まれるのが徳です。


そもそも、何か見返りを求めて行う善行などで徳が積めるはずがありません。

来世の位をあげたいからと、誰かに徳を積めと言われて積む善行など、天国行きの切符欲しさに金で買った免罪符にも等しい行為と言えます。


つまり、カルマとは決して悪い行いだけを指すのではなく、前世も今世も含めた己の全ての思考、言動、行動の全てを指すものであり、その結果はエネルギーの保存と循環により必ずなんらかの形で因果応報に現れるものです。

そして、カルマの精算時に何かに気づき、純粋なる愛のエネルギーから生まれるのが徳であると思っていただいて良いと思います。

では、どんな時にカルマの精算が行われるのか?
これについてはまた別の機会にお話したいと思います。

最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

コジマ ダイキでした。