幼稚園に通うようになった私に、母が繰り返し言ったのは、
「友だちをたくさんつくりなさい。」
ということだった。
「友だちがいない子は、だめな子なのよ。」
ともよく言った。
友だちとはどんな存在なのだろう?
同じ幼稚園に通っている子?
同じクラスの子?
同じ社宅に住んでいる子?
いつも一緒に遊んでいる子?
よくわからなかった。でも母に聞き返せなかった。
たぶん、母は、私に協調性を持ってほしいと思っていたのだろう。
たぶん、一緒の社宅に住んでいて、一緒の幼稚園に通っているY子ちゃんは友だちなのだろうと思った。
たぶん、一緒のクラスの、一緒に遊ぶ子は友だちなのだろうとも思った。
でも、けんかして、一緒に遊んでもらえなくなったら、それは友だちではなくなってしまうと思った。
そうして、一緒に遊んでくれる子がいなくなれば、私には友だちがいないということになり、私はだめな子になってしまうと思った。
それがこわくて、私はあまり自分を主張することはなかった。
意見が食い違って、
「じゃあ、みきちゃんとは遊ばない。」
と言われることがこわかった。
幼稚園から帰ると、よく私は母に、
「今日は〇子ちゃんと〇子ちゃんと〇子ちゃんと〇子ちゃんと遊んだんだよ。」
と報告した。
それはかけっこだったり鬼ごっこだったり、わりと大人数で遊んだときに限った。
粘土遊びだったりお絵描きだったり、あまり他人とかかわらない遊びをしたときは、報告しなかった。
母は、明朗で活発で友だちの多い優秀ないい子であることを私に望んでいた。
だから、母が、私には友だちがたくさんいて、いい子なのだと認識してもらわなければならなかった。
私は、まわりの人間の、顔色を窺ってばかりいたと思う。
まわりの子たちに嫌われないように気をつけていたと思う。
先生のおぼえのいい、いい子であろうと努力していたと思う。
両親や先生や、大人の顔色ばかり窺って、叱られないように褒められるようにばかり気を使っていた。
友だちとは、何だろう。
還暦を過ぎた今も、実は私にはよくわからない。
今まで付き合ってきた人たちが、友だちだったのかどうかわからない。
もしかしたら、私自身がその人たちの友だちを演じていたのではないかとも思うのだ。