2024.05.05
水城駅からまた鹿児島本線に乗って、博多を越えて、途中で快速に乗換え、2時間弱かけて小倉に到着(13:50)。遅めのお昼を食べて小倉城に向かう。
途中にある常盤橋。九州各地に向かう道が繋がっていることから“九州の日本橋”とも呼ばれているらしい。
何重にも堀が巡らされており、石垣も見事に積まれている。説明看板にも書かれていたが、この城は石垣を見るのも楽しいという。入口のこの石垣も巨石がいくつも使われており珍しいとのこと。
四重五階の大天守と後ろに隠れて見えないが一重小天守からなっている。特徴は最上階の出っ張った窓。“南蛮造”と言われ、縁側の周りを戸板で囲った江戸時代当時からも珍しい造りとなっていた。ただ、江戸時代の天守は1837年に焼失してしまい、現在あるのは戦後の再建天守となっている。天守の再建にあたりひとつのエピソード聞いたことがある。戦後、天守を復興するにあたり、設計者は残っている図面などから江戸時代の天守に可能な限り忠実に再建しようと試みたのだが、地元から「あまりにも地味すぎる」という反対にあい、破風を多く用いた現在のデザインになったという経緯があるらしい。では、江戸時代の天守とはどのようなものだったのか?自分も話に聞いただけでどんなものなのか想像もつかなかったのだが、模型が城内の資料館に展示されていた。なるほど、確かに地味かな?しかし、模型の方が個性的で現代ではより多くの人が見に来てくれそうなんだけど(←個人の感想)自分的にも江戸時代の天守のデザインの方が好きだ。
ちなみに、白壁に黒の戸板という組み合わせは、茶人で“利休十哲”の1人でもある小倉藩初代藩主細川忠興の好みによるものではないかとされている。
さて、城内の資料館には小倉城や小倉の歴史についての展示のみならず、宮本武蔵と佐々木小次郎に関係する展示も多く見られる。巌流島の決闘は小倉藩の領地舟島(現在の巌流島)だったことを思い出した。
次は外に出て石垣見学。まず、天守を出てすぐ右側、小天守下の石垣。
赤茶けており、第二次長州征伐の際の戦火に焼かれて、赤くなったものとされている。
また、継ぎ足された石垣も見ることができる。城を拡張する際に継ぎ足されたものだろう。
さらに謎なのが、石垣の脇に井戸が掘られたこの場所。細川藤孝(幽斎)が建てた田辺城にもあるとのことだが、なぜこのようなところに井戸を掘ったのか?理由がはっきりしないとのことだ。
最後に「しろテラス」というお土産物売り場兼カフェ?的な施設で続100名城のスタンプをもらい、小倉城の見学は終了。この日は4城も廻ったので疲れた。小倉のホテルで1泊して、翌日門司港駅の周辺を見学した後、ゴールデンウィーク最終日で午後から混むことも予想されたので、昼前ののぞみで名古屋に戻った。
今回の五島列島、対馬、福岡の続100名城巡りの旅は以上。終