自分を愛すること。
素直に自分を好きでいられる。この気持ちを心から感じられるようになることは、全ての人において、人生のテーマとなるだろう。
自分を好きになる、そこに立って初めて、自分の中にありとあらゆる可能性や方向性を見出だすことが出来るのだ。
『愛』は、必要不可欠で、全ての人の中に存在する。
無くなることなんてない。
私たちは、『愛』の存在なのだから。
しかし、行き過ぎた愛情のため出来上がってしまったものもある。
『自己愛人格障害』だ。
これは、本来持ち合わせているはずのその人の性質からなるものではなく、その殆どが外的要因からなる、後天性のものである。
それ故に、本人には自覚が無く、治すことは難しいとされている。
外的要因とは、自己形成の段階で、外部から与えられた要因のことである。
影響が大きいのは、母親から幼少期に与えられてきた全てのことで、これが鍵となる。
(母親に限らず、生を受けてから1番身近で1番共に過ごした人物がこれに相等する。分かりやすいよう、母親とした。)
何故ならば、まっさらで生まれてきた魂に、最初に刻まれるのは、母親の愛情だからである。育て方ひとつでその子の人生が決まるかもしれない。それほど、重要な存在なのだ。
本来であれば、ただ愛するという行為は、これ以上にはない無償の愛である。
だが、可愛いから、大切だから、という母親の想いの愛を与え続け、いつまでも手放さなかった場合に、異常な事態をまねくことになる。
それが、『自己愛人格障害』だ。
(ここからは、自己愛人格障害者を自己愛人格者と表現する。)
関わる全ての人に影響を与える。
自分が1番大事。相手に対し束縛が強い。手に入ったものは何でも自分の所有物だと認識する。その為、パートナーや子供を持った場合、自分の思い通りならないと気が済まない。自分の家族の存在は、我が儘や横柄な態度に輪をかけるであろう。
家庭抱懐にも成りかねない。
このような自己愛人格者が、所有物(本人がそう認識しているもの)から愛されなかった場合、どうなるだろうか。
彼らは、何故自分は愛されないのか、内に原因を探すことはせず、ありのままの自分を受け入れてくれる愛を外に探すのだ。
譲歩も無ければ、改善もしようとはしない。
どこかで、愛してもらえる場所を見つければ、どんな愛情でももらえれば、それで生きていこうとするのだ。
私的観点から言わせてもらうと、可哀相としか思えない。
元はと言えば、本人だけの責任ではない。
心と身体が成長した時点で、どこかがズレていると、気付けるだけの環境にも置かれていないのだから。
自己愛人格者が他の誰かと出逢い、好意を持って交わればどうなるか。
本来は、愛を発信すれば、愛となって返ってくるものである。
だが、彼らの場合はそうは簡単にいかない。
自分に向けられた愛は、全て吸収するだけなのだ。
もう一度言うが、本人だけのせいではない。
これまで培ってきた核たるものは、変わらない。ゼロからの始まりではないからだ。
もし、彼らと関わる者が、愛で包み込むことしか知らなかったとしたら、その場合は、どんなものでも無条件で受け入れてしまうだろう。(受け入れることが出来てしまうからだ。)
必ずしも、深く優しい溢れる愛があればいい、というわけではない。
深く優しい愛の中にも、必要なのは、厳しさだ。もちろん、愛発信の元に。
一般的な精神科医、カウンセラーがお手上げな理由がここにある。
自己愛人格者は、自分が愛する者からしか改善策を受け入れない。
そして、本人の意志でしか治せない。
だが、裏を返せば、彼らは、自分が心から愛する者から、愛を持って発信される改善策であれば、受け入れる可能性があるということだ。
ここに辿り着くまでには、相等な労力と時間を費やすことになるであろう。
それよりも、如何に愛以上の愛を伝えるスキルがあるか、精神性があるか、更には霊性までもが求められることになる。
超至高の愛は、全てを救う。
希望に満ち溢れる道しるべとなるであろう。
