死神の浮力を再び | another way

another way

新たにまた一歩踏み出す

「死神の浮力」は、伊坂幸太郎さんの小説のタイトルです。

 

 

死神の浮力 (文春文庫)

 

 

”死神シリーズ”はほかの著者さんの方が有名かもしれないのですが、私は伊坂さんの死神シリーズにでてくる死神、”千葉”が好きで、タイトルを見て、あ!読みたい!と。

 

前作の「死神の精度」を10年以上前に読んでいたく感動し、小説好きの友達にはよく勧めていました。

 

読みたい!といっても、最近はAudibleで聴くことの方が多く、こちらもそう。

 

 

聴き始めて気づいた、これ、たぶん一回読んでる。

 

 

そんな既視感のような、懐かしいような感覚があるのに、ストーリー展開や登場人物について、まったく覚えていず、この先はどうなる?と思い出そうとしてもまったく思い出せず。

 

こういう記憶の断片というか、感覚のみ、はいったい脳のどこにどのようなカタチで格納されているのでしょうね?

 

年齢を重ね、経験が多くなるほどに、記憶として残しておくデータも膨大になり、カタチを変えたり、置く場所を変えたり、そのため感覚だけが残っていたり、とPC内のデータを圧縮して容量を減らすようなことが脳内で自動的にされているのでしょうかね。

 

不思議な感覚です。

 

本を読み返すことはめったにしないのですが、この本はそのような理由(物語の展開を覚えていないため)読み返すことになり、すると、前読んだときと違うところに反応している自分を発見しました。

 

特に頻繁にでてくる哲学者の言葉や古い書物からの引用は、前回はそのような書物を読んでいなかったので、ほとんどひっかからずスルー。

 

それが、今回は2年くらいの間に読んだ本に書かれていたことが引用されていて、理解が数段あがりました。

 

そして、何回も語られる「死ぬこと」「死」についての話。

 

「死」の恐怖が何回も語られますが。

 

前回読んだときには、そうそう、死はとても怖いとよねと、共感したように思います。

 

ところが、

最近、4回生き返ったひとの実話の本で死後の世界のことを読んだせいか、いまは死ぬことはその頃より怖い感覚はなくて、それよりも、いまを「生き抜くこと」、寿命まで「生き続ける」ことの方が辛くて怖い気がしています。

 

読んだときのその人の状況で受け取るもの、感じるものも変わるのですね。

 

読んだ本は処分することが多くなりましたが、たまにはこうして読み直す、特に移動中に耳から聴くのは負担が少なくて良いかもしれません。

 

 

対象となる人物を、死なせるのか死なせないのかジャッジをするお仕事の”死神”。

その仕事を真面目に、無表情に淡々とこなしながらも、微妙な感覚や認識のズレにより、おかしな発言を繰り返し、それがついにはクスリ笑いを引き起こす。

 

独特の世界観が広がる伊坂ワールド、ちょっとだけ読むつもりでも、ぐいぐいと、ついつい引き込まれてしまいます。

 

これを聴きながら、今日は東京芸術劇場に「アラバスター」を観に行きました。

 

 

 

しかし、私、完全に間違えていました。

 

涼風真世さんの演技を久しぶりに見れる!とオペラグラス片手にずっと出番を待っていて、

とうとうカーテンコールになってしまってから、声だけ出演なのだと気づきました.....

 

声も素敵だけど、お姿拝見したかったです😭

 

ポスターなどに声だけとか書いていただいていたら親切だったかなと思います。(ネタバレになるのかな?)

 

みんな知ってたの!?
 

 

還暦が近づくとこういう勘違いをしてしまうものなのでしょうか・・・

 

 

ショックで生き抜く力も幾分削がれたので、カフェで気持ちを立て直してから帰ろうと、

あたりを見回して見つけた「梟書茶房」

 

 

こちらはとってもよかった!いままで知らなかった!飲んだり食べたりしながら、店内に陳列されている本を自由に読めるんですよー!(TSUTAYA &スタバさんとはまた違った趣)

 

 

テーブルの近くの書棚にこんな本を見つけました!ワクワク♪

 

 

こちらを眺めながらスパークリングを飲んで、すっかり機嫌は直りました(笑)