求めれば求めるほど
 
深めれば深めるほど
 
どんどん、果てしない宇宙のように広がっていくマイケルの世界。
 
仕事や家事の合間とはいえ、3年も続けて研究?して記事を書いていくと
その果てしなさにあらためて感嘆の溜息をつくと同時に
「わあ、やっぱりそうだったんだ!」「マイケルすごいよ」という感動も沢山もらっています。
 
「ビリージーン」の連作一つをとっても、どんどん深みにはまっていって
もうすぐ切り上げるはずなのに、なかなか上がってこれません。(笑)
 
こんな迷走中の記事でも毎日お読みいただき、またコメントで励ましていただいて
とっても感謝しています☆
 
前回の記事も「スリラー期にマイケルがヘンリーホンダから演技論を学んだ」なんていうとても古い資料からヒントを貰って書いたものなのですが、さすがに飛躍したかなとちょっと反省。
 
マイケルの映画への思いは晩年まで失われることはなかったというのは定説ですが
そんなに資料もないし。
 
でもそんな中、裁判での愛息プリンス君の発言の中に、
「パパから脚本の書き方を習っていました」という言葉を見つけて、涙。
 
子供たちの夢や興味を引出し、それを無理強いせず伸ばしてあげるマイケルと
それに応える素直な子供たちの姿に胸がいっぱいになりました。
 
今も、マイケルが生きていてくれたら。。。。そう思うと同時に、やっぱり
もうちょっとこの「ビリージーン」の記事も深めていきたいと思いなおしました。
 
またまた、懲りずに「深読み記事」が続いちゃいますが、お付き合いいただけたら幸いです。
 
それにしても深めれば深めるほど、新しい謎や発見が出てきます。
でも、マイケルがあまりに「王道」を行っているので、ちゃんとした資料を調べれば
しっかりとした「答え」も出てくるんです。
 
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こ~んな無邪気な笑顔と、まるで「生きている図書館」みたいな幅広い知識と、教養、深い洞察力。子供の純粋さと大人の知恵が矛盾することなく
一人の人間の中に存在する。
 
マイケルはやっぱりマジック!です。
 
カルメンは「カルメル山の聖母」
 
ビリージーンがカルメンを引用していることに気づいてから、改めて「カルメン」の魅力や深さに囚われてきました。
 
美貌、知性、生命力、反キリスト教的、異人種。。。、自由、女性の自立、などなど
 
「単なる悪女」では時代や国境や文化の違いを超えた人気の説明ができないのは、ビリージーンにも言えること。
 
その魅力を「おっかさん的」と説明するオペラ歌手のかたの発言を聞いて
「ビゼーやマイケルはカルメンやビリジンに聖母マリアを重ねているのではないか」と漠然と感じていました。
 
「父親のいない子供をもつ若い母親」という要素は「マリア」の必須条件。
 
でも、どちらかというと「あばずれ」のカルメンやビリジンが「聖母マリア」って
非キリスト教徒から見ても問題かなと。でも、オペラを見てもカルメンが死ぬ場面では
背景にマリア像があることが多いのです。
 
そこで非キリスト教徒的に、まったく純粋に非宗教的にマリア様のことを調べてみました。そこで出てきたのが、こちらです。
 
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                     黒いマリア様です。
 
 
ヨーロッパ各地で現在も信仰を集める黒いマリアです。「ダヴィンチコード」ではマグダラマリアとイエスの子供という設定でしたね。
 
でも、調べるとそういう話はほとんど出てきません。
 
この黒いマリアはキリスト教布教以前に根ざしていた「太地母神」信仰をそのまま受け継いだもののようです。
 
シバの女王、エジプトのイシス、ギリシアのデメテル、ケルトのダユーなど。
大地にまかれた種が死に、そこから新たな生命が生まれる。
黒は豊かな土地、豊饒の象徴。
 
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あらゆる生命を受け入れる包容力と、時に小さな人間を飲み込む破壊力。
 これらが「女性の神秘」と結び付けられ、「女神」が信仰されていたのです。
 
しかし「契約の神」を奉ずる、一神教のキリスト教(父権的)が席巻するとこれらの女神は封じ込められてしまいした。
 
でも、キリスト教以前におそらく何万年も人類の心を支えてきた神を一掃することはできず人々の心をつなぐために作られたのが「聖母マリアへの信仰」だったようです。
 
     太地母神+キリストの母
の原初的な姿をはっきりと今でも残す「黒いマリア」。
 
なんとなくですが、私は「カルメン」と「ビリージーン」にこの野性的な母神の
匂いを感じながら記事を書いていましたが先日になってようやく、この「黒い聖母」とカルメンをつなぐものを見つけることができました。
 
カルメンはスペイン語で「カルメル山の聖母」を表すのです。
 
カルメル山とはイスラエルのハイファにある葡萄やオリーブの実る美しい山で
「聖母マリアの象徴」としてあがめられています。
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カルメン=マリアとスペイン語を話す人たちは認識できるのでしょうが
私たちにはとても驚きですよね。
 
今現在キリスト教会が創り上げた「無原罪」「永遠に若い乙女」「純潔」といったイメージからはオペラのカルメンは程遠いのですが、
大地のような母の強さと生命力という根源的な性格とカルメンはぴったりです。
 
カルメル山にはアフリカから進出した時期の人骨の化石なども沢山出土していて
まさに、「人類の母」の要素も感じられます。
 
アフリカにまでつながるとなると、ビリジーンやスージーともしっかりとつながりが出てきます。
 
ブラダンのスージーはリトルスージーとの関係を考えると
母性の中にある破壊的な怖さが出ていますが。
 
よく世間では「女性性の復権」という言葉が聞かれるのですが、
「外見的な美しさ」だけに私たちの目は行きがち。
若さやお肌のハリ、だけではなく、
命を守り育てる包容力や強さ
争いより愛を求める「女性原理の復活こそ」が求められるのではないでしょうか。
 
 
日本でも現在「伊勢神宮」がクローズアップされたりしていますが
マイケルの目のづけどころは、30年も早かったですね。
 
「母なる大地」への思いは「Planet Earth」への思いとつながりますが
マイケルは母神だけを信仰すようになったわけではなく、
父神=創造の神、根源神への信仰は失っていません。
 
エホバの証人から離れ、キリスト教以前の人類が信仰した「父神」と「母神」の対を
意識するようになったのでしょう。日本神話でも神様は「天つ神」「国つ神」
に分けられていますが、「天(空)」(父)と「大地」(母)を対にして神を考えるのは
世界中に存在する観念のようです。
 
男性原理と女性原理がぶつかり、融合することは連作「ビリージーン」の根底にある大きなテーマであると思います。母から離れられず、でも女性の魅力に翻弄される男性と、産み育てたいという女性。どちらも本能的で幼いのですが、根源的な欲求に正直な者たち。その両者異なるものがぶつかりあううちに成長し、和合していく。
 
人類の持つ永遠の課題としての物語であり、
そこには「死」があることで新しい「生」が生まれるという避けて通ることのできないもう一つの課題もあるのだと気づかされます。
 
「カルメン」の原作でカルメンが死ぬのは洞窟の前という設定です。
これがオペラになると闘牛場という、神に牛の命を捧げる祭儀の場が持ってこられます。
 
洞窟自体が母なる大地の内部へとつながる生と死を象徴する場所になっているのです。
 
マイケルにとって生命の象徴はダンス。ブラダンではダンスフロアが生命が生まれ
死ぬ、神聖な場所としての意味合いを強く持たされていると感じます。ダンスクラブの内部が赤で統一されているのは、女性の胎内を思わせます。
 
 異質なものの融合
マイケルの音楽を語るときに必ず言われる「黒人音楽と白人音楽との融合」
ということ。
 
マイケルは黒と白だけではなく、「女性原理と男性原理」、「ポップスとクラシック」
「明と暗」、「アメリカ的なものと非アメリカ的なもの」など相反する二つの要素を組み合わせから新しいもの創造するという思想を持っていたように思います。
 
この「二元論的」な考え方や、深層心理の中でも「集合無意識」、原型を使った人物造形から見てマイケルは「ユング派心理学」を深めていたのではないかと思いながら
作品の考察をしていたのですが、「マイケルはフロイトやユングのことに造詣が深かった」という資料をこちらのブログ様で紹介されていたので、「心理学からみたマイケル」を次の記事でまとめたいと思います。
 
ユング派の心理学は日本では河合隼雄さんなどが研究され、受容されているのですが、アメリカでは「オカルト」に分類されてしまうこともあるほど受け入れられていないようです。
 
仏教との共通項が多いと言われるユング派心理学とマイケルについて
考察をしてみます。
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この記事での「マリア様」の考察は、信教の対象としてのマリアではなく
文化的、歴史的な意味を考察するものですので、ご了承ください。
 
カルメル山はエルサレムの北のほうに位置するハイファという土地にあります。
湾岸戦争の頃アメリカ人の友人が一時的にここに住んでいて、「ロケット弾」が飛んできたと手紙をくれたことを思い出します。
 
 
さまざまな宗教にとっての「聖地」とされた地域の一部なのでしょう。
その聖地が争いの舞台になっているのが皮肉なことですが。