社会で発信し、何かをする時は、自信が必要になる。

 

「他人にどう思われても良い」というメンタリティじゃないと、自分の信じるものを突き通すことができない。

 

人間は社会に出ると、自信を持つことを強要される。

自分のメンタルが準備できていなくても、仮面を被ってでも社会で一人前に振る舞うことを期待される。

 

その時、自信を持つ方法はいくつかある。

 

他人と自分を比べて、「自分の方ができるから」と自信を持つ方法。

 

近くの誰かや、憧れの誰かに安心感を求めて、「今日も大切な人がいるから、頑張れる」と自信に変える方法。

 

自信とは、心がブレないということだから、そのブレない部分をどこに置くかで、自信の種類が決まる。

 

 

でも、その自信の源泉を「自分でない誰か/何か」に置いてしまうと、それは「本物」でないような気がする。

 

本当の意味で自信を持つには、自分自身を見つめ、社会からは見えない「内側」の部分にブレない何かを築き上げる必要があると感じる。

 

それは思ったよりも大変な作業で、まずはその自分の内側を掘り下げること、自分の弱みも未熟さも全て受け入れること。

そこには、痛みが伴う。

 

社会では日々、強く振る舞うことを求められるのに、「自分は弱い人間だ」と認めなければならない。

社会で生きる自分を一度、否定しないといけないかもしれない。

 

それをクリアしたとしても、次は「自分は弱い人間である」と認めるところからスタートして、社会に出ていかないといけない。

誰かと比べなくても自分の存在が担保されている状態で、遠慮したり、譲ったりする場面や、そこまで誰かに向けて強く発信する必要性を感じなくなってしまうかもしれない。

 

 

それでも社会へ向けて、強い自分を身につけて発信していきたいという気持ちは、どこから来るのか。

社会で強くあるための本当の自信は、どこから湧いてくるのか。

 

 

自分の中にある弱さを、強さに変えていくプロセスなのかなと思う。

そのプロセスで得た経験や感情を、悩んでいる人、困っている人に寄り添い、応援するために、自分が強さを身につけるということなのかなと思う。

 

 

本当の意味で自信を持つということは、本当の意味で自分の弱さを知り、全てを受け入れるということ。

 

多くを求めず、弱い自分を受け入れ、目の前にあることと真摯に向き合い、1つ1つ乗り越えていく作業だと思う。

 

そうすることで、自分の経験が1つずつ積み上がっていった先に、真の自信が芽生えてくると思う。

 

全て自分で成し遂げようとしなくて良い。

無理な時は無理で良い。

自信なんて、持たなくて良い。

 

遠回りだとしても、どれだけ時間が掛かっても、自分は「本物」を追求していきたい。

 

今は脆くても、弱くても、最終的に何があってもブレない、崩れない自分を手に入れられる気がするから。