あの日、私は確かに聞きました。

静まり返った病室に響いた、かすれた声を。
「もうすぐだよ。7人の使者が来る。2025年、全てが始まる」
その瞬間、空気が凍りついたようでした。

 

モニターの電子音が異様に響き、誰もが息を呑んでいました。

ベッドに横たわるのは、日本を代表する霊能者、宜保愛子さん。

 

数々の心霊現象を科学者の前で言い当て、震災や政変の時期を

予見してきた彼女が、最後に残した言葉でした。


 

病室を出たとき、私は自分の鼓動が耳の奥で響いているのを感じていました。


「7人の死者」「2025年」──その意味を誰も解釈できなかった。

けれど、彼女の遺品から見つかった47冊の黒いノートには、

震える文字でこう記されていたのです。

 


《この記録は2025年12月21日まで封印せよ》


 


遺族はその遺言に従い、今も厳重に保管しています。

なぜ47冊なのか。

なぜ12月21日なのか。

そして、なぜ27年も前に未来を指定できたのか。

 

私は長いあいだこの謎を追ってきました。
今年に入り、SNSでは「時間がおかしい」という言葉が急速に広がり、

わずか10ヶ月で47万件を超えました。

偶然ではありません。宜保愛子さんが語った「7つの封印」のうち、

すでに4つが開かれている──そう確信しています。

 今夜、その封印の真実をお話しします。




 

☆封印予言―NHK深夜の証言録音


渋谷の○○○スタジオで番組「超常を科学する」の収録が行われた夜、

私は関係者から何度も同じ場面の話を聞きました。

議論が長引き、空気が重くなった頃、宜保愛子さんが

ふと立ち上がったというのです。


 

疲労を帯びた声は低く震え、

「2025年、夏の終わりから秋にかけて、南から大地の怒りが来ます。

人々は恐怖に震えるでしょう。

 

しかしこれは終わりではありません。

試練の後に新しい時代が始まります」と静かに告げたといいます。

 

たちまちスタジオの緊張は限界まで高まり、音声席の手は震え、

レベルメーターは見たことのない波形を描いた。

カメラのファインダー越しに「周囲の空気が歪んだ」と語る撮影者もいた。

通常の収録で説明できる現象ではありませんでした。


 

問題は、そこで語られた内容そのものです。

具体的な年を挙げた災害予言は、当時の放送倫理規定で禁じられていた。

結局、その箇所は編集で切られ、オンエアから消えました。

 

にもかかわらず、映像と音声はアーカイブに保存され、

関係者の間で密やかに語り継がれたのです。

 

年が経ち、未放送部分の存在を報じた記事が出ると、

複数の元スタッフが証言しました。

 

録音を担当した男性は、休憩中に交わした会話を忘れられないと言います。

「2025年の後、人々は何が本当に大切かに気づきます。

 

お金や地位ではなく、人とのつながり、自然との調和が見直される時代が来ます」と、

コーヒーを手に、遠い先を見ているような目で話していた、と。


 

ここからが核心です。

宜保愛子さんの発言は単なる“話題”で片づけられなかった。

 

ある防災研究機関の関係者によれば、元・防災科学技術研究所の研究員が

私的にまとめた検証資料が存在し、過去30年の発言を洗い出し、

自然災害との一致を数値化したというのです。


 

結果は一致率87%。

統計学的に偶然とみなされる確率は0.001%未満。

数字は冷たい。

 

だからこそ、この冷たさが告げる異様さは無視できません。

具体的な事例も重い。

 

ある年、宜保愛子さんは「砂漠の国で大地が泣いている」と語り、

4日後、エジプトでM5.9の地震が発生、死者540名に及びました。


 

地震学者が「大地震は起きにくい」とみていた地域です。

震源からピラミッドまでの距離は47キロメートル。

 

さらに後年、宜保愛子さんが残したノートの冊数も47。

数字の偶然か、意味のある一致か。答えは出ませんが、

胸のどこかに重りのように残ります。


 

そして、あの未曾有の震災。

宜保愛子さんはそれより前に「東の島国に大きな揺れが来る」と語っていました。

ノートにはより具体的に「95年、明け方、港の近く」とある。

実際、大きな被害は港湾部に隣接する地域に集中しました。


 

時期、時間帯、場所。ここまで重なれば、

こじつけて片づけるのは容易ではありません。

なぜ、ここまで精密な言葉が可能だったのか。

 

宜保愛子さんは生前、「向こうの方々」という存在に触れていました。

過去も未来も同時に見る“意識”としか表現できない何か。

 

量子力学は時間を絶対の一方向ではなく、

観測にゆらぐものとして扱うことがあります。

 

私たちはその専門家ではありません。

それでも、発言と事象の重なりが示す圧は、

理屈より先に現実感を伴って迫ってきます。


 

私は思います。

放送で切られたのは、扇情を避けるための手続きとして

正しかったのかもしれません。

 

しかし、切り捨てられた映像に残ったのは“恐怖”そのものではなく、

試練の後に続く“回復の絵”でした。

 

人は何に立ち戻るのか。

人と人の結び目はほどけないのか。

 

自然とどう向き合い直すのか。2025年をめぐる言葉は、

破滅の鐘ではなく、選び直すための微かな合図として

鳴っていたのではないか、と。


 

証拠はどこまでいっても証言と数字です。

けれど、証言の密度と数字の冷徹が同じ方向を向くとき、

私たちは耳を澄ませざるを得ません。


 

スタジオに走った歪み、メーターの異常、編集室に置かれた未使用のカット、

机上に積まれた47冊のノート、その端に走る小さな書き込み。

点は線になり、線は像になる。

 

あの夜に発せられた一言は、いまも消えていないのです。

私は、その像から目をそらすことができません。

ここに記すのは、恐怖をあおるためではありません。

 

見なければならない現実と、見落としてはならない兆しが、

確かに並んでいると伝えるためです。

 

私が聞いたのは、終わりではなく、始まりの話でした。

そう、確かに、そう感じたのです。