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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
お読みください。
信長がその生涯の最後に残した言葉としてあまりにも有名な
「是非に及ばず」。
これは本当に信長が発した言葉なのでしょうか。
「是非に及ばず」が有名になったのは、信長の一代記
『信長公記』に、著者の太田牛一が信長の言葉として
記しているからです。
是は謀叛歟、如何なる者の企ぞと御諚の処に、森乱申す様に、
明智が者と見え候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。
この記述が有名になり、多くの人が想像を働かせ、「光秀ほどの
者が取り囲んでいるならば逃れる術(すべ)もない。
逃れるかどうか議論する暇もないから戦うだけだ。」とか
「光秀を非難するとか和睦交渉する必要はない。
攻めてきたのなら戦うだけだ。」とか、様々な
解釈が述べられています。
実は牛一が「是非に及ばず」と書いているのは、この信長最期の
場面だけではありません。『信長公記』には何度も「是非に及ばず」が
出てきているのです。
例えば、元亀元年(1570)、越前朝倉攻めの際。
信長がいよいよ越前中央部へ侵入しようとしていた時に、北近江の
浅井氏が裏切ったとの報せを受けた際の記述。
江北浅井備前手の反覆の由、追々其注進候。然供(しかれども)、
浅井は歴然御縁者たるの上、剰(あまつさへ)江北一円に
仰付けらるゝの間、不足これあるべからざるの条、虚説たるべきと
思食(おぼしめし)候処、方々より事実の注進候。
是非に及ばず、の由候て……
この箇所の「是非に及ばず」、新人物文庫版の現代語訳では
「信長はやむをえぬと言って」となっています。
「是非に及ばず」という言葉をつかっていたのは牛一だけでは
ありません。
かの「直江状」にも「是非に及ばず」の一文が記されています。
直江状第五条
一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、
逆心と思召す処是非に及ばず候、……
(景勝には逆心などありはしません。讒言する者を調べることもなく
逆心があるなどと言われては是非もありません。)
さらに、同時代の人、山科言経(やましなときつね)の日記
『言経卿記』にも「是非に及ばず」の文言が登場します。
本能寺の変を伝える天正10年6月2日の記録
夘刻前右府本能寺へ明智日向守依謀叛押寄了、側時ニ前右府打死、
同三位中将妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王御所)へ取籠之處ニ、
同押寄、後刻打死、村井春長軒(貞勝)已下悉打死了、下御所ハ
辰刻ニ上御所(内裏)へ後渡御了、言語道断之爲躰也、
京洛中騒動、不及是非了、
明智光秀が謀反をおこし、洛中大騒ぎになりどうもこうもないと
記しています。
この他にも同時代史料を見ていると「是非に及ばず」という言葉を
いくつも見かけました。この時代、「是非に及ばず」という言い回しは
とてもポピュラーな言葉だったようです。
「是非に及ばず」は信長が最後に発した言葉ではなく、牛一がよく
使用する言い方として書いただけのことかもしれませんし、
当時よくつかわれていた言葉として信長も知っており、やはり本当に
信長が発した言葉だったのだとも考えられます。
最近、牛一が記した信長最期の様子とは違う様子を伝える
記録として、アビラ・ヒロンの記録がテレビの歴史番組や
小説などでも取り上げられるようになっています。
アビラ・ヒロン著 『日本王国記』第4章
信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、
何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと
言ったということである。
これに注目する人もいるようですが、アビラ・ヒロン自身が記して
いるようにこの本能寺の変に関する記録は噂によるもので、
出どころがはっきりしていません。
『日本王国記』はイスパニア人の貿易商人
ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンによって記された日本に
関する記録書です。
日本の歴史、風俗、習慣などが詳細に記されており、他書には
見られない記述も多くあって貴重な記録の一つですが、
アビラ・ヒロンが商人であり学者ではないことから、誤りや記憶違いも
多く、信憑性が高いとは言い難い部分が多々あります。
後にイエズス会のパードレ、ペドロ・モレホンが訂正の注を多く
ほどこしたお陰で、信用度が高まっているという評価もありますが、
本能寺の変に関する箇所が噂を集めた聞き書きであることは
変わりありません。
アビラ・ヒロンが来日したのは、本能寺の変から12年も後の
1594年です。本能寺の変以外にも信長に関する珍しい記述を
残していて、アビラ・ヒロンはそれらを信長や明智ガラシャとも
親交のあったイエズス会のパードレ、グレゴリオ・デ・セスペデスから
入手しています。
そのため信長に関する記述はかなり信憑性が高いのでは
ないかと思うのですが、本能寺の変に関する記録は除外して
考えなくてはなりません。本能寺の現場にパードレ・セスペデスは
おらず、これに関する記録は噂話を集めただけにすぎないからです。
おそらくパードレ・セスペデスは、本能寺近くにあった南蛮寺にいた
イエズス会士や信徒から、情報を集めたものでしょう。
これらの人とて本能寺内部にいたわけではなく、あくまでも周辺の
噂を耳にしただけのことでしょうから、信憑性が高いとは言えません。
最近テレビや小説などで、信長が側近として召し抱えていた
黒人家臣の彌助が信長最期の様子を伝えたとする説を
見かけることがあります。
本能寺の変当日、彌助も本能寺に宿泊しており、本能寺が
襲撃されるとそこを抜けだし、信忠のもとに駆けつけ戦いました。
『イエズス会日本年報』に「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った
黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、
明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと
言ったのでこれを渡した」という記述があります。
彌助は殺されることなく南蛮寺に送られることになりました。
そこでイエズス会士が彌助から信長の最期の様子を聞いたのだろうと
する人がいます。ですが南蛮寺に送られたことまでは
記録にありますが、彌助からイエズス会士らが信長の話を
聞いたとか、信長の最期が具体的にどのような状況だったのか
などは、記録に残っていません。
ですので、彌助が信長最期の様子を語り、その内容が間接的に
アビラ・ヒロンに伝わったというのは、あくまで想像にしかすぎません。
そもそも彌助はイエズス会士らにしてみれば、「黒奴」と記録するような
奴隷身分です。信長は彌助をたいそう気に入り、イエズス会士から
もらい受けた後は、奴隷としてではなく家臣として厚く遇しましたが、
イエズス会士にしてみれば彌助が奴隷であることに
変わりありません。
だからこそヨーロッパ本国に送る公式記録である『日本年報』に
名前ではなく、「黒奴」と記したのです。その奴隷の言葉を
イエズス会士のパードレであるセスペデスが、わざわざ他者に
伝えたかどうか、はなはだ疑問です。
アビラ・ヒロンの記した内容、牛一の記した「是非に及ばず」、ともに
信長の最期を正しく伝えていると断定することはできないと思います。