島原・天草旅行記 6 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。




人気ブログランキングへ




原城の次は島原三宅家のお墓参りにむかいました。



案内をお願いしたSさんはお仕事で島原にも来て

いらっしゃるようで、わたしの知らない三宅一族の人びととも

お付き合いがあり、そのお宅に連れて行ってくださいました。
おばあさんがお一人で留守番をしておられ、お仏壇のある
座敷にあげていただきました。
こちらのお宅は三宅艮斎の次兄にあたる人の子孫です。
座敷には艮斎・秀らの肖像写真が掲げられてありました。

三宅藤兵衛の孫にあたる人が島原に移住して、さらにその

二代後が医師・三宅元哉という人です。
元哉の長男・玄碩の子孫が三宅艮斎・秀親子です。
二十年ほど前に閉院しましたが、当時島原地方で最も大きい
病院といわれた三宅病院の院長は、三宅艮斎の

長兄の子孫です。

玄碩は元哉の長男ですので本来は本家を継ぐはず

なのですが、なぜか次男の文泰が島原・北岡の本家を

継ぎ、玄碩は島原の北有馬というところに別家しました。
玄碩は近隣に知れ渡るほどの優秀な人で、逆に文泰は
少年の頃遊んでばかりいた人だったのに、なぜ玄碩が別家
したのかは不明です。



文泰は、近所の人が兄と自分を比べて三宅家の兄は

優秀だが弟は将来どうする気だろうと噂しているのを聞き、

一念発起、その後勉学に励み医師となったそうです。
この文泰の直系子孫がわたしです。
フラフラしてばかりいる遺伝子は受け継いでいるのに、勉学に
励むところは継ぐことができませんでした。



座敷でお茶をいただいたあと、近くにある墓地へ参りました。




北有馬のこの墓地は、本家と別家、両方のひとびとが

眠っています。
わたしの5代前の先祖まで一緒に入っていますが、
その次の代(わたしの高祖父)からは、北岡の本家の墓地を

別に造っています。そのあたりの詳しい事情はわかりません。



墓地は小高い丘に位置する眺めの良い場所にあります。
スカートを穿いたキノコのような墓碑に刻まれた文字は

風化がはじまって読みにくくなっています。
墓石掃除に適した薬品で拭けば読みやすくなるそうです。












北有馬のお墓のあとは、いよいよ父の実家のお墓参りです。



南有馬と北有馬は江戸時代、有馬村というひとつの村

だったものが近代になって二つに別れ、それが平成18年

(2006年)に南島原市として近隣の他の村と共に

合併しました。


島原には島原街道と呼ばれる道が走り、島原半島をぐるりと

一周して長崎街道に繋がっています。
北有馬と南有馬は島原街道上に位置しています。
二つの有馬地区の間には有馬川が流れており、有馬橋が

架かっています。
北側から南側に有馬橋を渡ってすぐ、わが家の墓地が

見えます。
周囲は田んぼが広がり、有馬川の向こうには島原湾が

臨めます。
北有馬と南有馬、両方の墓地とも菩提寺の管理する

墓地ではなく、地域の住民たち共同の墓地だそうです。



わたしはこの墓地に来たのははじめてで、Sさんも北有馬の

お墓はご存知でしたがこちらの墓地にいらしたのは

はじめてでした。
そこで墓地を探す前に菩提寺で訊ねてみようと行ってみた

ところあいにくお留守だったので、近くにある前回の

島原旅行でもお世話になったお寺に訊ねにいってみました。
幸いご住職がわたしのことを覚えてくださっていて、
ご子息が案内してくださることになりました。



墓地に到着し、お寺のご子息も一緒にわが家の墓域を探して
くださり見つけることができました。
ありがたいことです。



お墓の位置から見て、この墓地にはまず三宅家の墓が

最初にでき、周囲を取り巻くように後から地域の各家の

お墓が建てられていったようです。



家系調査をはじめて約五年、やっとのことでこの墓地に参る
ことができました。
祖父はわたしが小さな頃に亡くなったので会った記憶は
ありませんが、祖母にはかわいがってもらいました。
墓石には祖父母の名、そして除籍簿、資料上で見た
先祖たちの名も刻まれています。
ここまで導いてくれた先祖に対し、有り難いという気持ちが
こみ上げてきました。



こちらの墓前にも「光秀」のお酒を供えました。
お供え物の飲食物は持ち帰るのが基本ですので、お酒は
Sさんに受け取っていただきました。







無事に目的を叶えホッとして、Sさんに口之津港まで送って
いただきました。
お昼ご飯までごちそうしていただき、本当に

お世話になりました。
口之津港を出る船のデッキから見えなくなるまで手を

振り合ってお別れしました。
またいつかお会いできますようにと祈りつつ、

天草に向かいます。




※2015年1月5日 二ヵ所訂正しました。



「こちらのお宅は三宅艮斎・秀の直系子孫にあたる家系で、
座敷には艮斎・秀らの肖像写真が掲げられてありました。」

「こちらのお宅は三宅艮斎の次兄にあたる人の子孫です。
座敷には艮斎・秀らの肖像写真が掲げられてありました。」


「三宅病院の院長も玄碩の子孫です。」


「三宅病院の院長は、三宅艮斎の長兄の子孫です。」





ペタしてね

読者登録してね