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播磨・美作・備前の三国の国境に接する上月城は、要衝の
場所に位置することから戦国時代、大名たちの間で
奪い合いが繰り返されました。
播磨・三木城主の別所長治が、同盟していた織田氏に背いて
敵対すると、天正6年(1578)、これに呼応して西国から毛利・
吉川・小早川・宇喜多氏らが上月城に大軍をもって
攻めこんできました。
上月城は前年12月に秀吉が攻略して、尼子勝久・
山中幸盛を入れ置いたところでした。
西国軍襲来の報を受け、秀吉と荒木村重が救援に向かい
ましたが、城へ近づくことができませんでした。
そこで4月24日、信長は播州出陣のための軍勢を集めるよう
信忠に命じました。
信長自身も出馬して「われら東国の軍勢と毛利方西国の
軍勢とで直接切り結び、東西の境界に決着をつけよう」と
言い出しましたが、佐久間信盛・滝川一益・丹羽長秀・
明智光秀らが懸命に押しとどめました。
この時の「東西の境界に決着をつける」という発言は、
信長は天下(日本全国)統一を目指したのではなく、天下人
(京都を中心とする畿内の静謐を維持する人)であったという
最近の研究を裏付けるものの一つであると考えます。
毛利氏が国境を侵して畿内に近づいてこなければ、
信長側から単なる侵略目的で西国に侵入することはないと
いうような意思を感じるからです。
信長を押しとどめた家臣たちは、現地の情報確認をするため
次々と出陣していきました。
4月29日、滝川・丹羽・光秀が出陣。
5月1日、信忠・信雄・信包・信孝らの一門衆と細川藤孝・
佐久間信盛が、尾張・美濃・伊勢三カ国の軍勢を率いて
出陣しました。
5月6日には播磨の明石近く、大窪村に陣を据えます。
先陣は神吉(かんき)・志方・高砂の敵城に対峙して嘉古川
付近に陣を布きました。
五月朔日、播州へ御動座なされ、東国・西国の人数膚を
合せ、討勝つて、関戸を限つて仰付けらるべきの旨
仰出ださるゝ処に、佐久間・滝川・蜂屋・惟任・惟住申す様、
播州の儀は嶮難を拘へ、節所を隔て、要害を丈夫に構へ
居陣の由、承り候間、何れも罷立ち、彼表様子見はからひ
候て申上ぐべく候間、御延慮を加へられ尤の由、
各々達して御異見なり。