『信長公記』に見る明智光秀  その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。

よろしければバナーをクリックお願いいたします。


人気ブログランキングへ




今年の夏の終わり、『信長公記』の著者太田牛一の

お墓にお参りしてきました。
信長研究において欠かすことのできない最重要文献
『信長公記』。
太田牛一は信長の直臣で、弓が得意だった

そうです。
よく信長の右筆だったといわれますが、それは

あやまりです。
文才のあった牛一は、実際に接した信長の姿を

記録に書きとめ、信長の一代記『信長公記』を

著しました。




原文は活字化されているとはいえ古典の素養のない

わたしには読むのがとても困難で、一日数ページ

ずつパラパラと繰りながら目を通している

のん気さです。

そこでいつもよく引いているのが現代語訳の

信長公記です。
こちらを読み終わり意外に思ったのは、信長のことが

大好きだった牛一が光秀のことを悪く書いていない

ことでした。
信長が亡くなる場面も淡々と、あっさりし過ぎている

くらいの筆致で書かれています。




『信長公記』で光秀はどんな風に描かれているのか。
光秀が登場する箇所を抜き出してみようと

思います。


※光秀について書かれた文献類はたくさん

ありますが、ここでは他の文献・資料の類は

参照せず、信長公記にある記述に限って

書いていきます。



『信長公記』 角川文庫版 

校注:奥野高広・岩沢愿彦


『現代語訳 信長公記』 新人物文庫版

訳:中川太古


以上二冊参照






『信長公記』に明智光秀の名がはじめて見えるのは

「巻二」、永禄十二年(1569年)の箇所です。



永禄八年、室町幕府第十三代将軍・足利義輝が

暗殺されて(永禄の変)以後、弟である足利義昭は

各地を放浪していましたが、永禄十一年、

織田信長の後押しを受けて京の都へ戻ることが

できました。
同年十月二十二日義昭は参内し、征夷大将軍に

任命され、室町幕府第十五代将軍となりました。


しかし世はまだ治まらず、永禄の変を起こした

三好三人衆らは義昭攻撃の機会を窺っていました。

信長が美濃への帰途についたあとの永禄十二年

一月四日、三好三人衆らは義昭の入った六条の

御所(本圀寺)を襲いました。





「正月四日、三好三人衆ならびに斎藤右兵衛太輔

竜興・長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、

先懸の大将薬師寺九郎左衛門、公方様六条に

御座候を取誥め、門前焼払ひ、既に寺中へ乗入る

べきの行(てだて)なり。
シカツシトコロニ、六条に楯籠る御人数(ごにんじゅ)、
 細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・

 赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・

 坂井与右衛門・明智十兵衛・森弥五八・内藤備中・

 山県源内・宇野弥七、………





六条の御所を襲った三好三人衆らを相手に御所を

護り闘った侍たちの一人として、明智十兵衛(光秀)の

名が見えます。
光秀について特になにも説明はなく、将軍警護に

あたった一人として名前が記されているだけです。



義昭と信長を引き合わせた仲介者は光秀だとする

研究もありますが、こちら の記事で書いたように、

義昭と信長との間にはもともと細川藤孝が

仲介者として働いており、その後光秀が藤孝と

信長との間に立って働くようになったのではないか
という説もあります。
『信長公記』には、そのあたりの事情は何も書かれて

おらず、光秀の名はなんの説明もなく、他の侍たちに

まじってさらっと登場しています。 




ペタしてね

読者登録してね