細川ガラシャ  その3 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

玉子が味土野に幽閉されている間に秀吉は天下を

平定し、大坂城を築城しました。
秀吉は諸侯にも大坂城の周りに敷地を与え、

屋敷を築くようにと命を下し、天正11年(1583)、

細川家は大坂・玉造に屋敷を造りました。





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玉造・細川屋敷跡
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秀吉のはからいで復縁を許された玉子は玉造の

細川屋敷に戻りますが、味土野時代から神経を

まいらせていた玉子は大坂でも塞ぎこむ日が多く、

こどもたちと顔をあわせることも出来ずに

閉じこもる日もあったと伝わっています。
この頃、玉子の顔を盗み見た者の首を忠興が
切り落としたなどという話もありますが、事実

だったのかどうかは不明です。



玉子はこの頃忠興から、忠興の親友である

高山右近の語るキリシタンの話をよく聞いていて、

さらに深く教理について知りたいと思うように

なっていました。
玉子は当時大坂にも開かれていた南蛮寺

(キリシタン聖堂)に行きたいと望みますが、大名の

妻が簡単に外出することは許されませんでした。
そこで侍女を聖堂に行かせ、話を聴聞させて

いましたが、天正15年(1587)、忠興が九州に

出陣中、玉子は屋敷を抜け出して聖堂へおもむく

ことに成功しました。
これが玉子の生涯最初で最後の聖堂訪問と

なりました。

この時のことが、アントニオ・プレネスティノが

書いた書簡に残されています。




玉子が訪れた時に聖堂にいたのは、日本人

伝道士・高井コスメです。
玉子はコスメから長時間にわたり話を聞き、また

玉子の方からもたくさんの質問、疑問を

投げかけました。
玉子は当時の武家で多く信仰されていた禅宗に

帰依しており、禅宗についても深い知識があり、

仏教とキリスト教との教義の違いについて等も

質問したようです。
聖堂にいた修道士らはこの女性がたいへん

聡明で、的確な話をすることに驚きました。
玉子は長い間の疑問が解けたことに喜び、ぜひ

入信したいと願いましたが、この時大坂にいた

バテレンのグレゴリオ・セスペデスはいかにも

高貴な身分のこの女性が秀吉の身内では

ないかと案じ、玉子の願いを一旦保留にしました。
セスペデスは聖堂を後にする玉子らの後を

つけさせ、細川家の奥方であることを確認し、

それからは玉子と宣教師との間での文通が

はじまりました。

プレネスティノの書簡には、玉子が当時翻訳されて

いたキリシタンの教理書を侍女たちに講読させて

いたことも書かれています。




玉子は自由に外出できない自分のかわりに

侍女を聖堂に通わせ、修道士らの話を聞かせに

行かせていました。
侍女たちは次々にキリスト教へ改宗して

いきますが、天正15年、秀吉は伴天連追放令を

発し、キリシタンであることが難しくなって

いきました。
玉子はオルガンティーノ神父との文通を続ける

中で、納得がいくまで疑問を問いただし、禁教令が

出たあとの厳しい状況のなか、ついに洗礼を

受けることになりました。
侍女・清原いと(洗礼名マリア)が神父から

受洗法を授けられ、神父の代理として玉子に

洗礼を授けました。

キリシタン・細川ガラシャの誕生です。



玉子は受洗前、忠興と離婚し西国へ隠退しようと

考えていました。
九州での戦争から戻ってきた忠興が非常に

厳しくなり、キリシタンとなっていた姥の些細な

過失をとがめて鼻をそぎ落とすなどの乱暴を

働くようになっていたのです。
悩む玉子に対し、オルガンティーノは玉子を

引きとめ、細川家にとどまるように諭していました。
オルガンティーノは自身の説得により細川家に

とどまった玉子を見守るため、他の宣教師たちが

京や大坂を逃れて九州に退去した後も、しばらく

小豆島に止まった後にひそかに京に戻り、玉子との
文通を続けています。



そうして慶長5年(1600)、忠興が家康の上杉討伐に

従って出陣中の7月17日、石田三成からの使いが

細川家にやってきました。
大坂城を守る豊臣方である三成の命で、玉子に

大坂城に移るようにとの申し入れがあったのでした。
玉子はこれを頑としてはねつけました。
忠興が出征のとき、こうなるであろうことを危惧し、

玉子に歌を残していったからです。



「なびくなよわがませ垣のをみなへし
あらぬかたより風は吹くとも」



これに対し玉子はの返歌は
「なびくまじわれませ垣の女郎花
あらぬかたより風は吹くとも」というものです。



忠興の心中を読んだ玉子は細川屋敷から動こうと

せず、侍女やわずかに残っていた家臣たちには

脱出するようにと言い置き、みずからは家臣・

小笠原少斎の介錯により絶命しました。

この時の有名な辞世が
「ちりぬべき時しりてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ」です。



玉子ことガラシャの死については、キリシタンだから

自殺できないので家臣に介錯させたのではないか

とか、しかしそれは家臣に殺人の罪を犯させることに

なったのではないかなどという疑問を持つ人も

多いようです。
最近の研究では、玉子の死は自殺ではなく

キリストの教えに従ったのだというものが

あります。



玉子に離婚を思いとどまらせる時にオルガンティーノ

『コンテムツス・ムンヂ』(当時の日本人は

「ジェルソンの書」と呼んでいた)の一節を用いたこと

書き残しています。
この書には、キリストに従う者がキリストに倣って

十字架を背負うことが説かれているそうです。


『新約聖書』の「マタイの福音書」の一節に

載せられたキリストの言葉

「わたしについてきたい者は、自分を捨て、

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

わたしのために命を失う者は、それを得る。」



「ガラシャはこの言葉に従い、自分の十字架を

背負うことにした。
つまりそれは忠興の妻であるがゆえに死ぬと

いうことである。
そうすることでガラシャはキリストに倣い、キリストに
ついていく者となるのである。」
…という説があります。


なかなか難解ですが、つまりガラシャの死は

自殺ではなく自分の十字架を背負った=

キリストの言葉に従った。
ガラシャは自殺という禁忌を犯さずに、キリストに

従う者として人生をまっとうすることができた…

という説です。



この「ジェルソンの書」の教えを玉子に授けた

オルガンティーノと玉子とは生涯一度も直接会う

ことはありませんでしたが、
深い信頼関係で結ばれていたことは残された書簡に

より確認できます。

玉子の壮絶な死により石田三成に対する非難の

声が高まり、これ以降三成は人質をとることを

中止しました。
玉子の死が関ヶ原における東軍勝利の一因に

なったと考える人もいるそうです。



玉子の死は、その死後の早い時期に宣教師らに

よってヨーロッパへ報告され、「勇敢な貴婦人」

としてガラシャの名は広く知られることとなりました。
玉子の死と生涯をテーマにしたオペラも作られ、

ヨーロッパの宮廷で何度も上演されました。
ハプスブルグ家の宮廷でも上演されており、かの

マリー・アントワネットも観劇しています。
四百年も前の日本の一人の女性の生き方が、

ヨーロッパの姫君たちに賞賛されていたのでした。





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玉造・細川屋敷跡に建つカトリック大聖堂
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