光秀の妻 熙子  その2 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

光秀と熙子の夫婦仲は良かったらしく、そこから
光秀は側室を持たなかったという話が

出てきたのかもしれませんが、本当のところは

不明です。
二人の間に生まれた子女の人数なども記録により

まちまちです。
確実に存在がわかっているのは女子三人と

男子二人の合計五人です。



まず長女・倫子。
最初荒木村次に嫁ぎ、のちに三宅弥平次(明智秀満)

に嫁いだ人です。
その妹・玉(珠)子。のちの細川ガラシャ。
それからもう一人、名ははっきりしませんが、

津田(織田)信澄に嫁いだ娘がいました。
本能寺の変が起こった頃、津田信澄は信長の

三男・織田信孝に従って四国へ渡海するため大坂に

駐留していましたが、光秀の女婿だということで

殺害されました。
おそらく信澄の妻もその時に亡くなったと

思われます。



光秀夫妻に生まれた男子としては二名の存在が

確実です。
光秀が謀反に踏み切る前に愛宕山に参籠した時、
ともに連れて行った嫡男・光慶(みつよし)。
それから弟の十五郎がいます。
ルイス・フロイスが、光秀の子息は非常に上品で

美しくヨーロッパの王侯の子弟のようだったと

記しています。
この男子二人は本能寺の変の後、坂本で死んだと

いわれますが、逃げることができたという

話もあります。




さて熙子夫人ですが、光秀亡きあと坂本で

明智秀満の手にかかって亡くなったとも言われて

いましたが、現在ではそれ以前に病気で

亡くなっていたとする説が有力です。
天正四年、光秀は石山本願寺攻めの陣中で病に

罹り、数ヶ月間動けなくなってしまいました。
赤痢ではなかったかともいわれています。
病状は一時重篤になり、当時一番の名医と

評判だった曲直瀬道三(まなせどうさん)の診察を

受けています。
熙子夫人は吉田兼見(吉田神道の神官)の元を訪れ

病気平癒の祈祷を依頼し、信長も病気見舞いの

使者を光秀のもとにつかわしました。
幸い病は快方にむかいましたが、今度は

熙子夫人が倒れてしまいました。
看病疲れのためとも、同じ病がうつったためとも

言われています。
そして結局熙子夫人は亡くなってしまいました。
「兼見卿記」には天正四年十月十日に死去したと

記され、西教寺の記録には十一月七日に

四十二歳で亡くなったとあり、同寺には墓石も

存在します。



愛妻を失くした光秀の悲しみは深かったでしょうが、
その後の光秀や子どもたち、明智一族の悲劇を

見ることなく逝ったことは、もしかすると熙子にとって

よかったのかもしれません。




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