荒木村重  その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

戦国の世は下克上。
家臣が主君に対して叛旗を翻すことなどよくある

ことで、決して珍しいことではありませんでした。
なかでも織田信長は幾人もの家臣たちに叛かれ、
いや、家臣だけではなく肉親とも骨肉の争いを

繰り広げながら天下布武を目指した武将でした。



謀反に成功した明智光秀を除き、最も信長を

苦しめることになった反乱を起こしたのは

荒木村重でしょう。





現在の兵庫県神戸市から大阪府高槻市あたりに

かけての地域は、その昔摂津国と

呼ばれていました。
この地域は戦国当時も現代も日本の交通の

大動脈にあたります。
この地理的にとても重要な摂津国の、中部地域の

土豪池田勝正に仕えていたのが荒木村重です。





永禄十一年(1568)、摂津国に織田信長が

侵攻すると、池田勝正はすぐに信長の軍門に降り、

荒木、和田惟政、伊丹忠親の三人が摂津国守護に

任命されました。
さほど広くない摂津に三人の守護が存在するという

ややこしい状況です。
やがて元亀元年(1570)、池田一族に内紛が

起こると、その混乱を突いて荒木村重は池田家の

実権を握ってしまいました。
翌元亀二年には和田惟政を討ち取り、村重は

摂津国の大半を掌握することとなりました 。



将軍足利義昭と信長の対立が深まると、村重は

すかさず信長側につき、信長は村重の軍事行動を

支援するようになりました。
天正二年、伊丹忠親の立て籠もる伊丹城を攻略した

村重は、ついに摂津全域を掌握し、伊丹を有岡と

改名して本拠を移しました。
村重の摂津における石高は約三十万石、

動員兵力は一万人にのぼります。
この時期村重と同レベルの勢力を有していた

織田家臣は、柴田勝家、佐久間信盛などの

わずか数人でした。




信長と村重の有名なエピソードがあります。
ある宴会の席上、信長はいきなり佩刀に餅を

串刺しにし、村重にむかって突きつけました。
皆が凍りつくなか、村重はその太刀に刺さった

餅に食らいつき悠々と食べ終えてしまいました。
食べ終えた後、自分の袖で太刀をきれいに拭い、
深々と平伏したということです。
この村重の態度に信長は大満足。
新参者を鑑定するために信長は敢えて奇矯な

振る舞いをしたのでした。



こうして信長に気に入られた村重は、河内

(大阪府)や播磨(兵庫県)方面の攻略戦に

従事するようになりました。
この間、領国摂津の支配体制を固めるのに

苦労したとみられ、織田家家臣として目立った

功績はありませんが、嫡男・荒木村次と明智光秀の

娘・倫子との婚姻を成立させるなど着実に

織田家内での地位を固めていたようです。




その村重が信長に対し謀反を起こしたのは

天正六年十月のことです。
謀反に踏み切った理由については研究家の間でも

意見が分かれていますが、村重が自発的に

起こしたのではなく「反乱せざるを得ない」状況に

追い込まれてしまったというのが真実に

近いようです。





信長は有能な人材を集めるのに熱心でしたが、
家中の中心となっていたのは織田家の本拠地である
美濃・尾張の出身者たちでした。
家臣の間ではその織田家本流組が他国出身の

傍流組に対して反感や警戒心を強く持ち、讒言や

いわゆるイジメ行為などが横行していたようです。
それを証明するかのように、村重の反乱と前後して

外様武将のトラブルが頻発しています。




◎大和の松永久秀が謀反に失敗して自爆死


◎三河の水野信元が嫌疑をかけられ切腹


◎近江の磯野員昌が脱走


◎播磨三木城の別所長治が毛利に寝返る


◎播磨・上月城の尼子衆が織田家に見捨てられ

全滅




村重も織田家本流組から嫌がらせを受けたという

逸話が残っているそうで、起こるべくして起きたと

いえるかもしれない村重の反乱です。





続きます




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