足利義昭  その2 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

将軍職に就任するため上洛を目指す覚慶は、

各地の大名に協力を求めながらの放浪生活に


入りました。






永禄9年(1566)、六角義賢・義治父子の協力を得て

近江・矢島に入り、矢島御所で還俗、


義秋と名乗ります。

しかし六角氏が三好三人衆と内通しているとの


情報があり、義昭は妹婿の武田義統(よしずみ)を


頼り、若狭へとむかいました。

しかし若狭武田氏も重臣の反乱や、父・信豊や


嫡子・元明との不和などの内紛を抱えており、


義秋の上洛に協力できる状況では


ありませんでした。




武田氏を見限った義秋は次に越前金ヶ崎を経て、


一乗谷の朝倉義景のもとにたどり着きました。

朝倉家滞在中の永禄11年(1568)4月15日、


義秋は「秋」の字が不吉であるとして京都から


前関白の二条晴良を招き、朝倉義景の加冠により


元服式を行い義昭と改名しました。


しかし朝倉氏も上洛のために動こうとはせず、


義昭は越後上杉氏に協力を求めましたが、


上杉氏も重臣の反乱や宿敵武田信玄との対立に


加え越中国も騒乱状態にあり、義昭上洛に関われる

状況ではありませんでした。








そのような中、義昭上洛を実現するための


協力者として、織田信長の名が浮上してきます。

「細川家記」には明智光秀が義昭と信長を


結びつけたと書かれていますがこれは間違いで、


永禄8年(1565)12月5日の細川藤孝あて信長書状に


「度々御請け申しあげているごとく、上意があり


次第日ならずとも、供奉する覚悟である」とあります。

永禄8年にはすでに細川藤孝を通じて義昭と


信長との交渉は開始されていました。

光秀が上洛運動に関わるのは、義昭と信長の


上洛が一度決定し、それが信長により破棄されて


以後、ふたたび交渉を再開した時のことだと


推測されます。






信長との間に再度上洛協定がまとまった義昭は、


永禄11年信長の招きにより美濃にむかいました。

信長は美濃西ノ荘の立政寺(りゅうしょうじ)にて


義昭を迎え、上洛への協力を約束しました。


同年8月、信長は近江・観音寺城の六角義賢


(承禎)に義昭上洛の協力を要請しますが、義賢は


応じませんでした。

そこで9月7日、信長は尾張・美濃・伊勢・三河の


大軍を率いて岐阜を発し、六角氏攻撃に入りました。

11日に愛知川に至ると、翌日あっという間に


箕作城(東近江市)を落としました。

当時内紛を抱え以前のような家臣団の結束は


崩れていた六角氏。

信長勢が観音寺城に迫ると、義賢は城を脱出して


甲賀三雲館へ、義治は蒲生氏を頼り中野城


(近江・日野町)へとそれぞれ落ち延びて行き、


ここに戦国大名としての六角氏は滅亡しました。










義昭を擁した信長は京に到着。

三好三人衆は京から撤退、本圀寺を仮御所に


定めた義昭は10月18日に朝廷から将軍宣下を


受け、室町幕府第15代将軍に就任。

同時に従四位下、参議・左近衛権中将に


昇叙・任官され、義昭の上洛運動は


実を結ぶこととなりました。

23日には信長を能でもてなし、管領にしようと


しますが信長は辞退します。

24日には足利氏の家紋である桐と二引両


(にびきりょう)を与えます。

信長のことを「御父」と呼んだ感状を与えたのは

この時のことです。








将軍となった義昭は政権の安定を図り、幕府の


機能を復活させました。

島津氏や毛利氏らも祝い金を献上するなどして


祝意を示し、幕府再興は当初は順調に進みました。

しかし信長が10月26日に京を去ると三好三人衆が


反撃に転じ、翌12年正月五日に京へ乱入し、


本圀寺の義昭を襲撃しました。(本圀寺の変)

この時光秀は義昭とともに本圀寺にあり


防戦しています。

光秀が太田牛一の『信長公記』に登場するのはこの

本圀寺防衛戦の記事が最初です。








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三好三人衆は、義昭の救援に駆けつけた


池田勝政・伊丹親興・荒木村重・三好義継・


細川藤孝らに山城桂川で敗れ、再び阿波へと


逃げ帰りました。

義昭は信長に命じて烏丸中御門第(旧二条城)を


整備させ、ここに移り幕府の政務を


執りはじめました。


しかし将軍となった自分が中心の政治をしたい


義昭と、自身による天下布武を目指していた


信長との思惑が相容れることはなく、しだいに


確執が生まれていきます。








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