わたしの先祖が三宅藤兵衛であることの裏づけが
とれた根拠として、以前こちら
の記事に
「有馬村で三宅という姓と桔梗紋を持つ家は
わたしの家系以外にはない」ということを
書きました。
なぜそう言いきれるかというと、島原の住民と家紋に
ついての詳細な調査報告があるからです。
その調査をした人というのはわたしの遠縁にあたる
故人で、亡くなるまで島原で三宅病院を開いていた院長です。
この人は三宅艮斎の兄弟の子孫にあたります。
三宅院長は歴史と家紋が好きな人で、少年の頃から
家紋研究に取り組んでこられたそうです。
三宅病院というのは当時島原で一番大きな病院で、
島原中から患者さんがやって来ていました。
院長は患者さんたちにお願いし、それぞれの家の
家紋は何か、聞き取り調査していたそうです。
その調査結果のうち、地元北有馬の家々の家紋と、
家紋別戸数を調べたものが表にされて、
長崎歴史文化博物館に残されていました。
調査戸数1060戸。
そのうち不明戸数が51戸。
1009戸 95%を調べ上げたという、立派な研究を
されていたようです。
この資料が作られた昭和58年当時、北有馬村内で
桔梗紋を使っているのは、三宅院長の
三宅家一軒です。
現在は北有馬と南有馬に分かれていますが、
その昔は有馬村という一つの村でした。
北有馬の桔梗紋の三宅家はもともと南有馬の
三宅家から分かれた家です。
南有馬で三宅という姓と桔梗紋を持つ家というのも、
わたしの家系以外にはありません。
ですので、三宅藤兵衛の墓に建つ桔梗紋と
「有馬村三宅一族」の文字が刻まれた石碑は、
わたしの先祖が建てた石碑に間違いないのです。
1637年、天草・島原の乱により当時の村人たちは
ほぼ全滅してしまった為、幕府は移民政策を行い
日本各地から多数の移民が島原へ入植しました。
特に多かったのが瀬戸内海の領域からの
移民であり、乱後30年~50年にわたり
移民たちがやってきました。
三宅院長は、その中の小豆島からの移民たちの
家紋に際立った特徴があるということに
気が付かれました。
三宅院長の収集された島原市三会町から
南串山町に至る各町の家紋調査資料によると、
小豆島から島原各町へ移民してきた家々の家紋の
多くに、共通した特徴がみられるとのことです。
各町の家々で使われている主な家紋六つ
①梅鉢
②剣片喰(けんかたばみ)
③丸に四目
④舞鶴
⑤丸に笹
⑥茶の實
これらの家紋の各町での所有者数が、
ほぼ同数である。
つまり、小豆島からの移民は、それぞれの家紋を
使う家がほぼ同数になるように、計画的に送られて
きたのではないか。
そしてそれぞれの家紋の特徴は、
①梅鉢
中央の小さい丸をキリストの胴体と見れば、周囲の
五つの大きな丸は磔刑になったキリストの頭と
左右の手足に見立てられる。
②剣片喰
梅鉢と同じく、十字架に架けられたキリスト像を
思わせる。
③丸に四目
真ん中に十字の線が浮かび上がる。
④舞鶴
博愛(キリスト教の精神)を意味する。
⑤丸に笹
これもやはり十字架上のキリストを思わせる。
⑥茶の實
穏やかな愛を持つ、キリストの心の表象。
三宅院長は以上のように読み解いておられます。
そしてそれぞれの家紋を持つ家の姓字(みょうじ)の
頭文字を繋げると…
※丸に四目の姓字の頭文字は…
聖よ、見よ、飛翔(ショウ)待て
※梅鉢の家は…
あなかなし、子よかなし、今はいい子はなやみ多い、
尚(ナホ)待て吾(アヤ)子、朝詞(コト)給(タモ)さ
※剣片喰は…
朝細や遠く奥く唱(トナ)い、尚(ナホ)夜(ヤ)襲(シュウ)
深(フカ)手、動かないか、棚下ないし地駄(ダ)
他(ヨ)所(ソ)さ走(ハ)しこよ。
(朝、細い声で唱えなさい。夜襲われたり、深手を
受けた時は動かず棚下にかくれなさい。
又は他所に走って逃げなさい。)
それぞれ、極めてキリスト教義的な文句が
隠されています。
この推理が当たっているとすると、小豆島移民には、
誰かが計画的にキリシタンを乱後の島原へ
送りこんだような気配が感じられるのでは
ないでしょうか。
キリシタン弾圧は天草・島原の乱後、さらに徹底され
激しさを増します。
そんな中、絶えてなくなったはずの島原キリシタンが
小豆島移民により密かに復活していたのでしょうか。
しかし現代の島原では、キリスト教信者は少ない
はずなのです。
わたしが彼の地を訪れた時も、わずかな時間で
出会った数少ない人たちからは、キリシタン嫌い
とでもいうような空気を感じました。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく』島原編にも、
「島原のキリスト教信者数は現代では少なく、
小学校などで信者の子はいじめられていた」
という記述がありました。
移民政策により小豆島から島原へ密かに流れてきた
キリスト教は、三百数十年の潜伏期間の間に
消えてしまったのでしょうか。
三宅院長の調査報告書はまだ続きがあったようなの
ですが、現在それは行方不明です。
院長は突然亡くなられてしまったので、あるいは
続きを書く間もなく途切れてしまったのかも
しれません。
いずれにしろ研究を続ける人がいなくなってしまい、
とても残念です。
※この記事は以前ヨソで書いたものを
手直したものです

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