華氏451度   レイ・ブラッドベリ  早川文庫SF


 映画化された小説は読まない・・・・という勝手な規則を作ってしまっていたので、たぶんきちんと読んだのは初めてだ。

 無論その内容はあまりにも有名だから、本を手に取るのがなんとなく怖かったのだ。


 この「怖さ」の正体がわからないまま読み始めて、何度も投げ出そうかと思ったのだ。

 読み終えた今、怖さの正体が見えてきたように思う。


 第5世代のコンピュータが発達して、だれもが気楽に音声入力モードでコンピュータと会話するようになったら、世の中はどう変化するのか?

 

 これもどこかで読んだ記憶があるテーマなのだけれど、その答えとして第1に挙げられていたのが、「文盲が増える」というものだった。


 22~3年前、洒落で「漢字検定試験」を受けた。本音はそのころからワープロを使うようになっていて、変換にはそれほど不自由を感じなかったものの、手書きで書こうとすると漢字が出てこなくて困ったのだ。


  

 この「華氏451度」は、大衆が本を読まなくなった国の様子を描いている。


 リビングルームの壁の4面がすべてテレビ受像機となって、無意味なドタバタ寸劇と商品コマーシャルが流れ、ベッドに入るときには、耳栓仕様の終夜ラジオがこれまた無意味な音楽や物語を流し続ける・・・・・・・


 かつては消防署であった組織は、密告された家々を回ってホースで油を注ぎ、住民もろとも「禁書」を焼き尽くす。

 そう・・・この時代、ほとんどすべての書籍は禁書なのだ。


 これって、今の日本のことじゃないのか?


 ちょっと前まで、テレビに登場するアナウンサーやタレントたちは、一応は意味の通る言葉を話していた。 今では逐一字幕をつけないと、何を言っているのかわからない。

 すいた昼間の電車の座席では、もう週刊誌をめくる人も少ない。多くはイヤホーンをつけて、携帯電話の画面を見続けている。


 60年近く前、マッカーシーイズム席巻するアメリカで、その愚かしさを批判するために書かれたとも言われるこの本の、その怖ろしさとはまさに・・・・

 

 とっくに気付いていたはずの「人々がものを考えなくなる時代」が、もう来ていることに気付く怖ろしさだったのだろう。


 誰もが認める名著でありながら、だれも他人には薦めない理由はきっとそれだ。


 この本は「パンドラの箱」だ。最後に希望は語られるけれど、飛び出してくる絶望に、あなたは堪えられるのか? 作者はそう語っているようにも思えるのだ。

R.P.G. 宮部みゆき 集英社文庫 2001年8月

本人によれば、単行本にするには枚数が少ないし、中短編集にいれるには収まりが悪い、ということで初の文庫書き下ろしとなったらしい。


このブログのタイトルからは外れる中編のミステリーなのだけれど、実に読ませる。やはり彼女は現代の一流作家だと思う。ネタバレになるから詳しくは話せないけれど、ものの見事に読み手を欺く技法は、思わず額をたたいて「コノヤロ!」と言わせる小憎らしさだ。まぁヤロウではないのだがねw


彼女の作品との出会いは「火車」だった。「龍は眠る」や「蒲生邸事件」もおもしろかったけれど、小説家としての禁じ手を確信犯として使うためには、並みの筆力では鼻白らむ。古典的手法に通じ、現代の世相を知り、緻密な計算ずくのユーモアを持ってはじめて書ける作品だろう。

ちなみにRPGとは、ロールプレイングゲーム。ロールプレイングを日本語に訳すと「役割演技」かな。この言葉は意外と古くから業界では使われていた。特に営業マンの育成のために、訪問販売のあの手この手を、売り手と客に分かれて演技しながら、セールストークの技を磨かせるためだった。たぶん1960年代半ばには知られていた言葉だ。その後1980年代に「ドラクエ」や「ファイファン」といったゲームの登場でより一般的な言葉となったわけだ。勇者や魔法使い格闘家の役割を演じて魔物退治をするファミコン世代には説明する必要はなかろうね^^

「アーヴァタール」 P・アンダースン  創元推理文庫


 今回は読後の後味について。


アーヴァタールとは「化身」という意味らしい。


日本の怖いお話に出てくる本当に怖い存在というのは、なぜかとてつもなく美しく、そして哀しく残酷だ。

「清姫」も「雪女」も「雨月物語の幽霊」も皆、底知れぬ怨念の中から出現した身震いする怖ろしさを持っている。


それに対して、西洋の「化け物」や「魔女」といった怖い者たちは、なぜか妙にユーモラスで間が抜けているように思うのはわたしだけだろうか。


中国の「聊斎志異」は、お化けの宝庫だけれど、哀しく美しくはあっても、身震いさせるような怖さはない。

これは単に翻訳の問題なのだろうか?たぶん違うように思う。


アーヴァタールを化身と訳したのは秀逸だ。

「憑依」とも「生まれ変わり」とも違って、ある特殊な存在の印を身に負った者が化身なのだろう。

その印は、わかる者にしか見出せない。いわば「カインの末裔」の額に現れる烙印のようなものなのだから。


「悪魔憑き」や「キツネ憑き」は、それがたとえホラー小説であろうと、パロディとしてのユーモアがどこかに匂う。

そういえば、「吸血鬼」の物語はキリスト教圏にしか存在しないという。ワインを自らの血にたとえる最後の晩餐がカトリックのミサの原型なのだが、その裏返しとしての「のろわれた血の伝承」を描いた吸血鬼伝説は、なるほどキリスト教のパロディであり、必ず成敗されるという意味で、水戸黄門や暴れん坊将軍と同様な安心感をあたえるのだ。


数あるSFの中でも、アーヴァタールは読後感が最もさわやかなもののひとつだ。

このさわやかさの正体は、化身である主人公のキャトリンの描写にあるのだろう。


勧善懲悪のヒーローは鼻につくが、奔放な女吟遊詩人のヒロインの言動はあくまでも暖かく、清姫の対極にある。

ファーストコンタクト物を多く手がけているアンダースンの作品の中でも、最も後味の佳い作品だろう。