「音のてがかり」
デイヴィッド・ローン 新潮文庫 2006年版
この作品はいわゆるSFではないけれど、SFとそうではない小説、この場合はサスペンスとの違いを考えるのにはちょうどいいかもしれない。
事故で視覚をうしなってしまった天才的音響技師が、最先端の音響機器と研ぎ澄まされた聴覚で誘拐犯を追い詰めていく物語だ。
主人公は天才ではあるけれど超能力者ではないし、登場する音響分析装置やコンピュータも現代の科学で充分に設計可能な代物だ。つまりQ光線を発したり、時間軸を遡ったりはしないのだ。
SFに登場するさまざまな機械、システム概念はしばしばもっと楽観的だ。
たとえば5万年前の風化寸前の印刷物を、そのページを開くことなく1/100mmの誤差で透視できる装置・・・JPホーガン「星を継ぐ者」・・・などは近未来科学の発展を楽観的に描いた作品だ。それゆえにホーガンは近未来ハードSFの寵児となりえたのだろう。
一方、レンズマンシリーズでは、進んだ科学も描かれるものの、他者の心や五感に進入して相手とその周囲を透視する能力が語られる。これなどは、宇宙を舞台にした冒険物だから、SF&FのFの方、つまりファンタジーに分類したって不思議ではなかろう。
そもそも、SFとFの区別なんかどうでもいいのだろうね。おもしろければそんな分類など不要だ、というのが大方の読者の率直な思いであるに違いない。
話は変わるけれど、私は時代小説が苦手だ。たぶん歴史というものが好きではないからだろう。
「歴史」というのは常に一方的な観点から書かれている。そのほとんどすべては権力者の視点で語られているからだ。それは平安時代や江戸時代だけのことではない。
今話題の「原発」だって、広島と長崎の記憶が消えることの無い日本人に、原子力の使い方には平和な面もあるのだよ、と、予算案審議のドサクサ紛れに始めたことだった。
「安全でクリーンなエネルギー」という標語は、「わが国がいつでも核武装できる素地を作っておく」ことを大衆の目から覆い隠すためのプロパガンダでしかなかった。
半村良の「産霊山秘録」を読んで「猿飛佐助が日本人初の月世界旅行者だなんて!・・・だからSFなんて荒唐無稽で小説とは言えない」・・・もっともな感想ではあるけれど、安全でクリーンな次世代のエネルギーとして原子力を信奉するような人々にこそ、SFの持つ「感性をワープさせる発想」が必要なのだと思う。
ありそうな事件をありそうな機知と機械で解決するのがサスペンスだとすれば、あるかもしれない事件に備えて、そうあるべき才能とシステムを考えるのがハードSF。
手前味噌に捏造された歴史を、こうだったらもっとおもしろかったのにと、想像力たくましく語られるのがファンタジー。
ゆがんだ牛の頭の上で、壊れた電球が光っている絵・・・・そうとしか思えない思わない為政者には、SFもピカソのゲルニカも児戯に等しいのだろうな。