今川軍の軍旗・朱鳥

令和三年(2021)9月8(水)に放送されたNHK歴史探偵「桶狭間の戦い」の感想です。



桶狭間、やはり萌えますね~!



この日、いろんな指摘がありましたが、個人的に気になったポイントを3つあげてみます。









清須で武器の大量生産をしてた

清洲城天守外観

桶狭間合戦当時の織田信長の居城は、現在の愛知県清須市の清洲城(清須城)。



今回、番組で清洲城の城下町の発掘調査内容の報告がありました。



それによると、製鉄所の遺構が出たのです。



鉄を溶かす時に出る不純物の塊である鉄滓(てっさい)や、炉に空気を送る羽口(はぐち)などが出土し、この事から清洲城下に武器を作る工場みたいなものがあったのではないかということ。



桶狭間合戦で使われた武器は残っていませんが、織田軍と今川軍で装備の差もあったのかもしれません。









織田軍に援軍がいた

名古屋市緑区長福寺山門

桶狭間古戦場に合戦時から残る長福寺がありますが、ここから新しい資料が発見されました。それが桶狭間合戦討死者書上。



それは織田軍の戦死者をまとめたものです。



この中で織田軍の死者・990余名とあるのですが、その中に近江国佐々木方加勢272人という記述がありました。



これはわかりやすくいうと、当時、南央美(滋賀県南部)を治めていた六角氏から援軍が来ており、272人が亡くなったということです。



六角氏といえば、後に信長が上洛する時、信長に居城・観音寺城を落とされ追放された戦国大名。



桶狭間合戦の時は同盟を結んでいたと考えられます。







桶狭間合戦は信長の誘き寄せだった?

海辺(伊勢湾)近くの尾張大高城の地図

そして今回の新説として紹介されたのが桶狭間合戦は信長の誘き寄せだったというもの。



簡単にいうと、ポイントは伊勢湾近くにあった大高城(名古屋市緑区)。



大高城は海での経済拠点でもあり、この大高城の争奪戦という見方です。



織田軍から大高城を奪った今川軍をおびき寄せるために、信長が周辺に砦を築きます。



それが鷲津砦、丸根砦、氷上山砦、証光寺(正光寺)砦、向山砦など。



その大高城を救援に来た今川義元が討たれたというのが、桶狭間合戦だったということですね。








私の感想

今川軍の軍旗・朱鳥

100人の歴史家がいれば、100通りの説があるというのが桶狭間合戦。



もう何十年と語られている戦いですが、謎も多いので改めて見てみると面白かったです。



私が所属している城巡りの会、愛知ウォーキング城巡りクラブでも令和三年(2021)10月から桶狭間合戦ゆかりの地を歩く城巡りシリーズを始めます。



会員の方はもちろん、会員以外の方も参加できるので、織田信長や桶狭間合戦に興味がある方は是非、参加してみてください。



>>愛知ウォーキング城巡りクラブの詳細